主日の福音06/11/05
年間第31主日(マルコ12:28b-34)
第一の掟は、共同墓地においても変わりません

11月、死者の月に入りました。馬込教会では、教会の共同墓地で、追悼ミサの形で今日のミサをささげています。私たちが今いるこの墓地という場所は、死者が復活の時までの時間を過ごす場所です。もちろん魂はこの墓地にいるわけではありませんが、骨はここに眠っています。

死者の骨が納められているこの場所で、今週朗読された箇所を考えるというのは、意味深いと思いました。律法学者が進み出てイエスにこう尋ねます。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(12・28)。二つのことを考えましょう。一つは、福音朗読そのものが教えようとしていること、もう一つは、今日の追悼ミサに特に当てはめて考えられることについてです。

福音朗読そのものが教えようとしている点は二つです。律法学者はなぜあのような質問をしたのかということと、イエスの答えが意味しているのは何かということです。当時、イスラエルの人々に示されていた掟は、大小合わせて613あったと言われています。重要さの度合いに差はあったものの、煩雑な細則は多くの人々を悩ませていました。そして、人々は律法を恐れ、律法の精神を考えることをやめてしまいました。考えることをやめ、律法に縛られて不自由な生活していたのです。

こうした人々のモヤモヤを、晴らしてくださる方はいないのか?もし、明快な答えをくださる方がいらっしゃるなら、その方こそ私たちに解放を告げる神からの使者、救い主ではなかろうか。そう考えるのは当然の流れです。イエスは律法学者に、単純明快な答えを示しました。イエスこそ、人が歩むべき生き方を示してくださる神、救い主なのです。

イエスの答えには、もう一つの大切な呼びかけが含まれていると思います。私たちは、掟が与えられているとしてもそれに怯えることなく、神様を心から愛するしるしとして、喜んで掟を受け取るということです。

イエスは、律法学者の問いかけに、具体的に律法の第何条が最も重要であるとは言いません。それよりも、あなたに、すべてにこえて神を愛する気持ちがあって、そこから、人を自分と同じように愛する生き方を守るならば、神はあなたを愛してくださっている。安心しなさい。そう仰っているのではないでしょうか。

それは、言い換えると、あの掟、この掟に触れたかどうかにいつも神経をすり減らす生き方はいわば旧約時代の生き方だから、もう横に置きましょうということです。イエスが示された新約時代の新しい生き方、信じた人、信じた教えに心を開いて、私は神と人を愛してますと胸を張って生きることこそ実行すべき生き方ですと仰っているのではないでしょうか。

ともすると、私たちも掟を細大漏らさず守ることで、自分の身を守ろうとします。私は守っている。だから私は正しいと、自分で自分を正しい人にしがちです。ですが、私たちを正しい人としてくださるのは神です。掟に閉じこもって身を守ることよりも、自分にできる形で、神と人に尽くす。そんな、新約時代の生き方を、今日私たちに期待しているのではないでしょうか。

次に、亡くなったすべての方々のためにミサをささげている今この時に、「あらゆる掟のうちで、どれが第一ですか」と考えてみましょう。この共同墓地に集まって、第一の掟は何でしょうか。私は、イエスの答えがそのまま当てはまると思います。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」(12・30)。この墓地ですべてをあげて神を愛すること。これが第一の掟です。

少しずつ考えてみましょう。「イスラエルよ聞け」とイエスは言います。これは、「すべての人は、よく耳を傾けなさい」ということです。今ここに集まってくださっている人は、ほとんどがこの伊王島に住所を置いている人でしょう。ところが、この墓地にはすでに住所が伊王島にない人々もたくさんいます。ですから、ここで今語る言葉は、この共同墓地に関わるすべての人に伝えるべき言葉です。何かの形で、今日の追悼ミサのことと話された内容を、届けてあげて欲しいのです。

次に、墓地でどのようにして神を愛するのでしょうか。それは、復活を待って眠りについた死者が神の計らいによって必ず復活の栄光にあずかると固く信じることです。神が、ここに眠るすべての人を復活させてくださると、心の中で念じたり、思いを込めて何かの祈りを唱えることです。死者を復活させてくださる神が今ここにおられると固く信じることが、すべてをあげて神を愛することになります。

同時にイエスは第二の掟も示しました。「隣人を、自分のように愛しなさい」(12・31)墓地で、どのようにして隣人を自分のように愛するのでしょうか。納骨されてここに眠る死者は、ひたすら神を信じ、神によりすがってここに留まっています。神を信じていなければ、ここにいても報われないのです。

私たちがここに眠る隣人のためにできること、それは隣人をいつも心に記憶しておくことです。亡くなった人は時間と共に忘れ去られていく危険があります。私たちでさえも、人から忘れられてしまうことがありますが、人から忘れ去られてしまうことはどんなにつらく寂しいことでしょうか。私たちがそのことをよく分かっているなら、ここに眠る人々のことを、自分のことのように覚えておいて欲しいのです。

特に今週は、亡くなった方々のことを心に留めて、ますます「神を全力で愛します」と心に誓い、ここに眠る人々を生活の中で機会あるごとに思い出したいと思います。今日の追悼ミサは、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という疑問に、イエスの答えが最もふさわしい答えですと、あらためて教えてくれたのではないでしょうか。
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