主日の福音06/10/29
年間第30主日(マルコ10:46-52)
私も「なお道を進まれるイエス」に従いましょう

金曜日と土曜日、天気良くて、二日続けて釣りに行かせてもらいました。どちらも3時間くらいです。金曜日はまあ、いろいろ釣れたのですが、納得できる結果ではありませんでした。翌土曜日は、皆さんもご存知でしょうが、ビックリするくらいの天気で、海は鏡のような凪でした。けれども、金曜日にさらに輪をかけて結果は思わしくなくて、今はションボリしています。いつでも釣れるなんてことはないですね。

福音に入りましょう。今日の福音で、道端に座っていた物乞いバルティマイがイエスから憐れみを受けることになります。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びは、イエスに確かに届きました。

バルティマイは、大声で叫んだので、イエスに聞き入れてもらったのでしょうか?確かに大きな声は、注意を引くのに有利かも知れません。けれども、私は思うのですが、もしもバルティマイが心の中で同じ言葉を言ったとしても、イエスに届いたのではないかなと思うのです。

バルティマイが大声で叫んだ言葉は何だったでしょうか。「ダビデの子イエスよ」そして、「わたしを憐れんでください」というものでした。この叫びは、イエスがどのようなお方であるかを十分に理解していたことを物語っています。バルティマイの叫びは、「わたしは、あなたが弱き者、小さき者を憐れむ救い主であることを知っています」という信仰告白だったからです。

群衆はそのことを理解していたのでしょうか。まったく理解していなかったようです。群衆はこの物乞いを「叱りつけて黙らせようとした」(10:48参照)とあります。彼らには、この物乞いの訴えが、イエスの歩みを邪魔するものとしか映りませんでした。群衆の考えているイエスとは、「目の見えない物乞いなどには目もくれない、そんなささいなことにかまってはいられない方だ。このお方は政治の舞台で活躍する華々しい人物なのだから」と考えていたのでしょう。

もう一つ興味深い描写があります。イエスや弟子たち、また大勢の群衆は道を歩いていて、バルティマイは道端に座っていたという点です。ここには隠された意味があると思います。イエスは今日の物語の舞台であるエリコを出ると、救いの計画の完成のためエルサレムに向かっていきます。救いの計画の途上にあるのです。これに対して、バルティマイは今のところ道端にいて、同じ歩みをできないでいます。

ところが、イエスは彼をお呼びになりました。目も見えず、人の憐れみにすがって生きる物乞い、群衆が「イエスを理解しない愚か者」として退けた人間、さらに救いの計画への道のりに関係ないと思われていた人物が、神の憐れみを受けるにふさわしい者、イエスを理解している者、イエスと共に道を歩む救いの計画の協力者として人々の前で取り上げられたのです。

さらにマルコはイエスへの深い信仰を持っているバルティマイと、目先のことで付いてきている群衆の違いを際立たせる場面を盛り込んでいます。イエスは群衆に「バルティマイ(あの男)を呼んで来なさい」と言います。人々は「安心しなさい、立ちなさい、お呼びだ」とバルティマイに声をかけるのですが、イエスにバルティマイを案内する群衆はそれでもバルティマイとイエスの深い絆に気付いていないのです。群衆は「イエスをまったく理解しない、群がる人々」でした。

自分たちのことを「見えている」と思い、「自分たちこそは、イエスのことを理解して、後をついてきている」そう思い込んでいたのでしょうが、彼らのほうが「何も見えていなかった」のです。その証拠に、イエスは群衆の前でバルティマイを「目の見える者」「わたしと同じ思いを抱いて歩いてくれる者」と認めてくださったのです。

結果として、バルティマイの願いは、イエスによって二重三重にかなえてもらいました。つまり、視力を回復してもらうということと、イエスが誰であるか、よく理解しているのはむしろこの人だと人々の前で証明してもらったこと、神の呼びかけを聞いて共に歩む人のモデルとして群衆から取り分けてもらったのです。

こうしてイエスにすべてを報いてもらったバルティマイは、「なお道を進まれるイエスに従い」イエスと歩みを共にするようになります。イエスは、「行きなさい」と仰って、バルティマイに行くべき道を選ばせますが、彼が選んだのは、「イエスに従い、同じ道を歩く」ということでした。これは、神の呼びかけを聞いて、それに答えて歩み始めるという召し出しの道です。

今、バルティマイに召し出しの道を重ねてみましたが、それはただ単にイエスといっしょに歩くという意味ではありません。イエスはこれから十字架への道を歩くことになるのです。バルティマイは、その同じ道を選び取ったのでした。イエスが十字架を通って人を救われるなら、私も自分の十字架を背負って、人生の道を歩きます。私はイエスの招きに従って生きていきます。そういう覚悟が、ここには現れているのです。

バルティマイは大勢の人間の中に埋もれているかのようでいて、イエスに確実に見つけてもらえる信仰の持ち主でした。私たちも、イエスに確実に見つけてもらえる人間でありたいものです。最初から、私はものが見えている人間だと思い、教会の中ではまともなほうだと思っていては、イエスからは群衆の一人として扱われ、声もかけてもらえないかも知れません。

大なり小なり、私たちには改めるべきことがあるわけですから、改めないといけないことを素直に認め、「わたしを憐れんでください」と声を上げる謙虚さを持ちたいものです。それでこそ、私たちはイエスの目に留まるのだと思います。

もう一度、物語の結びに注目しましょう。バルティマイはイエスのあとに従う決意をしました。十字架を担って人を救う道についていきました。私たちも、日々、イエスに変えていただきながら、あらためて、私の担うべき分をしっかり担って、イエスについていくことにしましょう。それによって、私たちは毎日の生活の中で神の国の完成に協力することができるわけです。
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‥次の説教は‥‥
年間第31主日
(マルコ12:28b-34)
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