主日の福音06/10/22
年間第29主日(マルコ10:35-45)
あなたがたは皆に仕える者になりなさい

東京に行って来ました。それぞれの教区で「教区報」を作っている広報委員会の人たちが全国から集まって研修を受けました。東京に3日間もいたので、東京弁が抜けなくなったらどうしようかなあと心配していましたが、行ってみたら長崎教区の司祭が3人も中央協議会に派遣されていまして、しかもその3人が上五島の出身の司祭ばかりでしたので、結局五島弁を東京で話して帰ってきました。

研修した内容は、「よきおとずれ」の2面にいろいろ書いていますのでここですべては話しませんが、最初に講演をしてくださった共同通信社に勤める講師が、「記事は分からないまま乗せたり、はっきりしないままで載せてはいけません。分からないときは、分かるまで尋ねるようにしてください」と話したのが印象に残りました。

この話をしてくださった共同通信社の講師は、入社して初めに新聞に載った記事は、確認を取るために何と20回も電話をしたのだそうです。それからすると、「よきおとずれ」に記事を載せるときに、私はあやふやなことを載せたり、たぶん大丈夫だろうという見込みで見切り発車したりしている気がします。反省させられました。

さて今週の朗読につながる体験を2つ紹介したいと思います。1つは、中田神父の携帯電話に入った相談です。東京にいる間に携帯電話が鳴るとは思いもしませんでしたが、かかってきた電話は結婚式に関わる電話でした。電話をかけてきた人たちはいったん教会に電話をかけたようです。すると、留守番電話で「これこれの携帯の番号にかけ直してください」という案内が流れますので、案内に従って携帯にかけたということでした。

「もしもし、そちらの教会で結婚式をしたいのですが、できますか」。あー、いつもの電話だなと思いました。それでいつもどおりに返事をするわけです。「カトリック教会で結婚式をされる方は、週に1度の勉強会を2ヶ月受けてもらう必要があります」。すると電話の相手は、「そうですか。分かりました」と言って電話を切りました。実は土曜日の午前中にも同じような電話がかかって、「分かりました」と言ってまた電話は切れました。

私は思うのですが、これらの相談相手は、このあと結婚の勉強にも来ないし、もちろん結婚式をすることもないだろうなあと思います。ですから、「分かりました」と彼らは言いましたが、私は、「分かっていない」と思っています。

彼らは確かに結婚式をしたかったのだと思います。そして、私が勉強会が必要ですよと言ったことも、理解できたと思います。「なぜ勉強が必要なのですか」とか、「勉強会ってどんなものですか」と尋ねたりはしなかったことから考えると、彼らは本当は分かっていなかったのではないでしょうか。本当に結婚式をしたかったら、教会が求める勉強会も受けようとするはずです。ですから、「分かりました」と言って電話を切った彼らは、「何も分かっていなかった」ということになります。

今日のイエスの出来事の中で、イエスが2人の弟子に「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(10・38)と尋ねて2人の弟子が「できます」と言いましたが、彼らはイエスが言うように、「何を願っているか、分かっていない」状態だったと思います。苦しみの杯を父である神に捧げ、命を人間すべてに差し出すことがイエスの言う「わたしの杯」「わたしの洗礼」だったのですが、2人の弟子たちはよく分かっていなかったはずです。

結婚式の相談をしたカップルの話をしましたが、本気で「分かりました」と言ったのであれば、何曜日にその勉強会はあるのですかとか、自分たちは県外にいますが、その場合はどうしたらよいですかと詳しく尋ねたでしょう。

実際、近くの教会で結婚講座にあずかり、修了証を持参して結婚式を受けに来る人たちがいるのですから、本当の意味で分かった人たちではなかったのです。分かっていないのに分かりましたと言うくらいなら、いっそのこと「わたしたちは勉強会をしてまで結婚式を受けようとは思っていないことが分かりました」と返事をして欲しいものです。

今週の朗読につながる2つめの点は、長崎から東京の中央協議会に派遣されている3人の神父様のことです。せっかくですから名前を挙げておきましょう。3人とは私と同級生で、中央協議会で出版部長をしている下窄神父、中堅で中央協議会広報部長をしている久志神父、それからベテランに入ると言ってよい神父で中央協議会事務局長に選ばれていった前田神父です。私が考えるに3人の神父様は「偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(10・43)というイエスの言葉を、より高いレベルで実行していると思ったのです。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」(10・43)この招きは、努力すればできるようにも思えますが、実際考えているよりも険しい道のりなのです。多くの人にとって「理解できる」教えですが、「実行できない」つまり「本当の意味は分かりにくい」教えなのです。

私も、イエスが言っていることは分かります。そして、ある程度は実行しています。けれども、「皆に仕える」ことはできていません。長崎教区のどこかの教会で、そこにいる信者の皆さんに仕える、その教会を宣教活動の中心に置いて「よきおとずれ」だとか、「メールマガジン」だとか、全国紙の記事を書くとか、たまには大学の授業を受け持つとか、そういったことでかなりの部分で奉仕しているとは思いますが、それでも「皆に仕える」ことはできていないと思うのです。

例えばですが、「じゃあ中央協議会の人もそろそろ交代だから、あなた行ってきなさい」と言われても、私は絶対にイヤです。ということはもうこの時点ですでに、「皆に仕える」ということはできていないわけです。この小教区にいて、さらにもう一つ二つ仕事が増えたとしても、おそらく私はそれを引き受けることでしょう。けれども、すべての仕事から解放してあげますから、県外に行ってくださいと言われたら、私はイヤだと言うと思います。

この時点で私は、いったい何人の人に仕えていないことになるのでしょうか。イエスは「皆に仕える者になりなさい」と言うのですから、仕えたくない人の名前が並べば並ぶほどイエスの招きに背を向けていることになります。

「県外には行きたくない」と言っているのですから、姿形は分かりませんが、多くの人に仕えていないことになるかも知れません。もちろん派遣先の良さが分かっていないからこうなるのであって、実際にそのようなことが起これば違った態度を取るかも知れませんが、今と同じように力を発揮することが派遣先でできるのかという疑問はあります。

いろいろ言いましたが、大切なことは3人の長崎教区の司祭が現実に東京の中央協議会で奉仕している、仕えているということです。私にはとてもできない高いレベルで、イエスの命令を受け入れ、毎日を過ごしているということです。去年初めて中央協議会での研修会に行った日の夜に2次会で小さな店に呼ばれ、「長崎からエビを送って」と言われて何と横柄な、と思ったのですが、今年は違うことを思いました。

彼らもきっと、長崎のほうがのびのびとできるに違いない。けれども、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」という招きに忠実であろうと腹を決めて、留まっているのではないでしょうか。エビを送ろうとまでは思いませんが、心から応援したいと思いました。

県外への派遣を断るのであれば、せめてこの長崎で、もっと多くの人に仕えていこう。もっと高いレベルで仕えていこう。そういう思いを新たにした東京での三日間でした。
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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(マルコ10:46-52)
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