主日の福音06/10/15
年間第28主日(マルコ10:17-30)
すり切り一杯の正義ではなく
私は車に乗っていてとっさにブレーキを踏むとき、後ろを見る習慣が付きました。もちろん、厳密には、前を見てブレーキを踏むわけですが、同時に後ろの車の動きも見ることにしているのです。
この習慣が身に付いたのは苦い経験をしてからです。そのうちの一つを話しますと、私がまだ大神学生だったとき、上五島で大神学生によるクリスマス劇をするためにとある教会に向かって走っていました。もう15年以上も前の話になりますが、集合時間が近づいていてすごく急いでいました。
私の後ろにも、福江から上陸してレンタカーであとをついてきていた大神学生の車がいました。集合場所である丘の上の教会を探しながら走っていたのですが、うっかりしていたため教会への登り口を行き過ぎようとして、急ブレーキを踏んでそこから右に曲がったのです。
「キキーーーー!」悲鳴のようなブレーキの音が私の後ろから聞こえてきました。私が突然急ブレーキを踏んだものですから、後ろの大神学生も衝突を避けるために猛烈にブレーキをかけて危険を回避したのです。あたりまえのことですが、前の車が突然止まれば、後ろの車はたまったものではありません。あのときの自分の運転を考えてみると、私がとっさに止まって曲がろうとしたとき、もし後ろの大神学生の車がそれに気が付いてなかったら、いったいどうなっていたことでしょう。
今考えるとゾッとします。あのとき事故を起こしていたら、私も生きてはいないでしょうが、もしかしたら後ろで運転していた大神学生の将来にも迷惑が掛かっていたかも知れません。それ以来、あっ!と思ってブレーキを踏むときは、後続の車は私のブレーキに気付いただろうか?そう思ってミラーを見る癖が付いたというわけです。
もう少し余裕があれば、何回かブレーキランプを点滅させるように心がけています。なぜかというと、自分は100%悪くない、どんな状況に際しても、自分さえ悪くなければ、責任を取る必要はなくなります。そういう状況を作るためです。私はずるいかも知れません。はたしてこんな態度は通用するのでしょうか。まずはこの点から考えるきっかけにしたいわけです。
教会への登り口を行き過ぎようとしたので、急ブレーキを踏んで曲がろうとした。私にとっては仕方ない判断でした。もしかしたら、私の急ブレーキに気付かずに、私の後ろの車が、私に飛び込んでくるかも知れない。そうなると、自分では仕方ないと思っていても、周囲の人にとって良い判断だったと言えるでしょうか。いったん安全に止まって、後ろの車にも「申し訳ない。登り口を行き過ぎた」と伝えてそれから次の行動を起こす。そこまで考える必要があったのではないでしょうか。
今日の福音で、金持ちの青年が、イエスに真剣な相談を持ち込みました。「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた」という部分が、本人の真剣さをよく描いています。彼は本気で、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのか」(10・17)知りたかったのです。
イエスは、当時だれもが大切に考えていた「十戒」を思い起こさせます。イエスはこの「十戒」を思い起こさせた時点で、これで青年の悩みは解決すると思っていたでしょうか。イエスはおそらく、この青年はそういうありきたりの答えには満足できないだろう、と考えていたのではないでしょうか。青年が、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えるのを、あらかじめ予見していたかも知れません。
「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。青年がこう答えたとき、イエスは「そうら来た」と思ったことでしょう。イエスは続けて、この金持ちの青年に財産に執着しないことを勧めました。青年の心に浮かんだことのない、新しい生き方に目を開かせるためです。
先に車の運転で失敗した話をしましたが、急ブレーキとは言え、ここで曲がらなければ、と思って思いっきり止まろうとしたことは、私にとって正しいと思える判断でした。ですが、もし私にもう少し余裕があれば、自分さえ正しければいいという考えから、もう少し周りのことも考えてあげることができたはずです。このできごとを、もっと広い物の見方を身につけるチャンスにできたです。
金持ちの青年は、自分の正しさをイエスに主張しましたが、イエスはその答えに満足していませんでした。あなたは自分のことだけを守るので精一杯の身分ではないのだから、もう少し、人のためにも心を開くことはできませんか?あなただったら、すり切り一杯の正義ではなくて、財産を貧しい人に寛大に施して、溢れるほどの正義を果たすことができるのではありませんか?そう呼びかけたかったのです。
残念ながら、この金持ちの青年は立ち去ってしまいます。イエスの招きに答えるだけの心の広さは持ち合わせていませんでした。イエスが示す「神の国で受け入れられる正義」に目を向けることはできませんでした。正義を守り、永遠の命を受け継ぐのに、この青年はギリギリ足りるだけしか、心を開くことはできなかったのです。
「お釣りはいいよ」とか、「あずけたお金で余ったらあなたの良いように使ってください」とか、さすがにこうしたことがすべての人に可能だとは思いません。ですがある人にとっては、寛大に自分の持ち物を提供して、ほかの誰かの分までも協力できる人もいます。
そうした人に、イエスは「勧め」をお与えになるのです。ギリギリの正義・ギリギリの愛ではなくて、溢れるばかりの正義と愛を施しなさい。私はあえて、このことをあなたに勧めます。そう促しました。この呼びかけはあくまでも勧めです。事実イエスも、金持ちの青年が去ったときに、「あの人は神の国に入れない」そんなことを言ったりはしませんでした。
自分の生活を守るのが精一杯、自分の安全を守るのが精一杯。そういう場面もないとは言いません。ただし、体験を通して「わたしはもう少し周りに気を配ることができる」そういう人も、中にはいるでしょう。今回中田神父の体験から考えてもらいましたが、一人ひとり、イエスの呼びかけを前にして、もう少しできるのではないか、自分を振り返ることにいたしましょう。
私は、ギリギリしかイエスの呼びかけに答えようとしていないのではないか、溢れるばかりの寛大さで、イエスの呼びかけに応える人になりたい。そのようなキリスト者に育てていただけるよう、ミサの中で祈ってまいりましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第29主日
(マルコ10:35-45)
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