主日の福音06/10/08
年間第27主日(マルコ10:2-16)
子供たちをわたしのところに来させなさい

今日の福音は、前半が本来の結婚の姿を考えるきっかけとなったファリサイ派の人々との議論についてでしたが、今回は後半部分の人々がイエスに触れていただくために子供たちを連れてきた場面について取り上げたいと思います。ちょうど、木曜日から土曜日にかけて、京都のノートルダム学院小学校に行って6年生の修養会を指導してきたところでしたので、朗読の後半部分とうまく結びつくように話したいと思います。

まずは三日間での京都の行き帰りですが、ちょっとこたえましたね。大村空港まで45分、伊丹空港まで飛行機が1時間10分、大阪から京都まで高速道路を利用したりして1時間15分、合計3時間ちょっとで京都にたどり着いたわけですが、時間はわずかでも突然京都の真ん中に放り込まれたような感じで戸惑いました。

先に話しておきますが、帰りは朝の9時55分の飛行機を予約していたのですが遅刻してしまい、次の12時40分の空席をドキドキしながら待つことになりました。京都からの出発は朝8時でしたので約2時間以内に着けば十分間に合うはずでした。ところが高速道路で渋滞に巻き込まれ、2時間前に出発したのに間に合わなかったのです。

ちなみに高速道路で渋滞に引っかかった場所の看板には「吹田(すいた)」と書いてありました。「すいた」で渋滞に巻き込まれたのですからシャレになりません。「どこがすいた(空いた)なんだよ」って思ってしまいました。

もう一つ、ついでの話しですが、修養会を行った学校所有の山の家からの帰り、「途中」という地名を見つけました。珍しかったので、「ここは、『途中』と書いてますが、本当に『とちゅう』と読むのですか」と尋ねたのです。すると事も無げに「そうですよ」と言われてしまいました。

たとえばですが、「途中で待ち合わせ」とか、「途中で待っています」「途中で拾ってください」とか言われたら、事情を知らない私はきっと「なんていい加減な返事だ」と思うかも知れません。「途中の途中で待ってます」なんてことになったらそれこそ混乱してしまうんじゃないのかなって、よそ様の心配までしてしまいました。

さて実際の修養会ですが、学校が置かれている街中から車で40分移動した山の中に別荘が建てられていまして、そこで6年生160名のために2回話しをしたわけです。小学生6年生と言っても大変聡明な子供たちで、おそらく将来東京大学や京都大学、大阪大学を目指すような子供たちなのだと思います。

この子供たちは、少し難しいのではないかなあという内容の話をメモも取らずにただ聞くだけで理解していたのです。単に聞くだけなら驚きませんが、話のあとにおこなった班別活動では、多くの子供たちが聞いた内容を立派にまとめて感想を述べてくれていました。子供たちが何となく聞いていたわけではないことが一人ひとりの分かち合いでよく分かりました。

この子供たちはなぜこんなに立派に育っているのでしょうか。私の理解ですが、それは、カトリックの学校で十分に教育を受けたからではないかなあと思いました。カトリックの学校ですから、当然宗教の授業が行われています。この宗教の授業を通じて、彼らは公立の学校では得られない導きをいただいていたのではないでしょうか。

もっと突き詰めて言うと、カトリックの小学校でどのような宗教教育を受けたので今回出会ったような優秀な6先生に育っていくのでしょうか。私は、あれやこれやの細かな技術ではなく、イエス・キリストが、宗教の授業の中で直接教え導いてくださっているからあのような子供に育っているのだと理解しました。

朗読箇所後半部分の中で、イエスは次のようにはっきり仰いました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(10・14)。子供たちが大胆にイエス・キリストに触れる環境がカトリックの学校として用意されているおかげで、子供たちがあそこまで立派に育っているのだと思ったのです。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」。この言葉は大変意味深いと思います。子供たちがご自分のそば近くに来ることをイエスが強く望んでおられるのです。子供たちはイエスに近づくことで、イエスから直接教え導かれて育ちます。

私たち大人のさまざまな思惑で子供たちが作られていくのではありません。ひたすら、イエスに触れることができる環境を作ってあげること。私たちはそのことだけに心を配れば、あとはイエスがすべてを計らってくれるのではないでしょうか。

今回私も、及ばずながら子供たちをイエスに触れさせるお手伝いができたと思っています。私があの子供たちを立派に導いたなどとはこれっぽっちも思っていません。彼らを教え導いたのは、私が紹介したイエスそのものです。「子供たちをわたしのところに来させなさい」という言葉は、「わたしが責任を持って子供たちを教え導きます」という強い決意の表れだと私は考えました。

もう一つ、見落とせない点があります。それは、「子供たちをわたしのところに来させなさい」の後に続く「妨げてはならない」という言葉です。私たち大人は、いろんな障害物をそのまま放置して、子供たちがイエスのところに来るための環境を悪くしてしまっているということがあるのではないでしょうか。

たとえば、朝のミサに子供たちが参加するためには、まず第一に家庭で朝のミサに間に合う時間に起きなければなりません。子供たちは疲れて眠たいから、朝のミサには起こさないでそのまま寝かせてあげよう。それが親の配慮だと思っているとしたら、私たち大人はイエスに叱られるのではないでしょうか。

むしろ、子供たちがイエスに近づくのに障害となるものを取り除いてあげることが、私たちにできるお世話なのではないでしょうか。日曜日の朝に眠くてミサに来ることができないのは、おそらく寝る時間が遅いからです。土曜日にもっと早く子供たちを休ませるようにすれば、朝の8時のミサは決して早い時間ではないはずです。

部活や習い事など、どうしても外せないことで子供たちがイエスに触れる機会が遠ざけられているとしたら、それを仕方がないであきらめるのではなく、ほんの少しでもいいから、子供たちがイエスに触れるチャンスを確保してあげるように大人たちが努力して欲しいと思います。

また、「妨げてはいけない」と言ったのは、本当に今子供と言われる人たちのことだけ考えなくてもよいと思います。あなたに子供と言える人がいるなら、その子供をイエスに近づけるようにして欲しいのです。あなたの子供がたとえ何十歳になっていたとしても、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」という言葉は生きているのです。

今回出会った子供たちがイエスに親しく触れる機会を持って見事に育っていったように、イエスの招きは今も私たちに迫っているのだということを肝に銘じて、すべての子供たちがイエスに親しく触れることができるように、これからも努力を続けていくことにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第28主日
(マルコ10:17-30)
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