06/10/06
2006年修養会「少年イエス」

【1】ノートルダム学院小学校6年生のみなさんこんにちは。私は長崎のカトリック馬込教会で働いている中田輝次神父といいます。今日、2回みなさんにお話しする機会に恵まれました。6年生にお話しするのに、どんな話がよいかなとしばらく考えました。
●私はカトリック教会の司祭なので、もちろんイエス・キリストのお話をしたいなと思っていたのですが、イエス・キリストのどんな姿を話したらよいのかなといろいろ考えたのです。そして一つのことが思い浮かびました。それは、できるだけ6年生のみなさんに親しみやすいイエスの姿を伝えたい、ということでした。
●そこでどんなイエスの姿が親しみを感じるのかなということから考え始めたのですが、もしも、イエスがあなたの隣にいてくれたら、一人ひとりのすぐそばにいてくれると感じることができたら、いちばん親しみやすいのではないかと思ったのです。
●でも一つ問題が残ります。それは、私の隣に、すぐそばにいてくださるイエスは、ふだんよく教えられているようなイエス、12人の弟子たちを従えて、おおぜいの人々の前で神の国のことを教えているイエスが、私の隣にいるということなのでしょうか。
●中田神父は、その考えを思い切って変えてみたいと思っています。もしも、12人の弟子を従えているイエスがみなさんの隣にいたら、みなさんはとても緊張して、親しみを感じるどころではないかも知れません。心の中にあることや、毎日のできごとを何でも話してみるという気持ちになれないかも知れません。
●では、どんなイエスが隣にいてくれたら、私たちは親しみを感じることができるのでしょうか。毎日起こる何でもない話や、昨日見たテレビの番組を話すことができるのでしょう。それは、ふだん話している何気ない話題を、だれに話しかけているか思い出したらよいと思います。きっと、教室にいる友だちと、話しているのではないでしょうか。
●教室にいる友だち、それは同級生、同じ6年生ということです。年が離れていたり、家族の人だったり、学校の外で出会う人ではありません。同じ年の、同じ勉強をしたり同じ遊びをしたり同じテレビ番組を見たりする友だちのはずです。
●ですから、あなたの隣にいるイエスが、少年であったら、同級生だったら、きっと親しみを感じ、どんな話題でも遠慮なく話すのではないでしょうか。そして私のそばにいてくれるイエスが、同じ年頃の少年だったら、私と一緒にこれからたくさんのことを同じペースで経験して、これからもずっと一緒に歩き続けてくれるのではないでしょうか。
●そこで中田神父は、今年の修養会のテーマとして、「少年イエス」を取り上げていっしょに考えることにしました。考えてみれば、私の隣にイエスがいるということは、イエスも机を並べて一緒に座っている、イエスも同じ大きさの服(制服)を着て、同じくらいのサイズの靴を履いているはずですね。隣に座っているのに、ながーいあごひげが生えていたり、体の大きさがまるっきり違ったりしている人だったら、ギョッとするに違いありません。
●ようやく、少年イエスに私たちの心を向ける準備ができました。その少年イエスについて、聖書はどのように紹介しているのでしょうか。イエスの少年時代について、聖書にどんなことが書かれているのでしょうか。まずは、みなさんの中でイエスの少年時代について何かを覚えている人はいませんか?
●イエスの少年時代について、聖書には1箇所しか書き記されていません。本当に残念なことですが、イエスの少年時代を詳しく知ることはできないのです。たとえ1箇所でも、大事なことが書き記されているに違いありません。ルカ福音書の2章に、「神殿での少年イエス」について書かれていますので、ここで朗読してからじっくり考えてみましょう。

【神殿での少年イエス】
2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
2:43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
2:44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
2:50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

●今朗読した箇所から、5つの点を取り上げます。もっといろいろ話すこともできると思いますが、5つの点は特にみなさんと深く関わっていると思いました。朗読に出てくる順番に、一つずつ進めていきましょう。
●まず1つめの点は、この話はイエスが12歳の時の話だということです。12歳、それはちょうどみなさんと同じ年齢です。中田神父は3月12日生まれなので、小学校を卒業する直前に12歳になりましたが、多くのみなさんは今すでに12歳になっていることでしょう。みなさん一人ひとりとまったく同じ年のイエスが、物語の中心にいるのです。
●この時間の始まるときに話しましたが、もしもイエスが少年だったら、同級生だったら、きっと親しみを感じることでしょうと言いました。ちょうど、私たちが今朗読で聞いたイエスは、12歳の少年です。まるで転校生のように、私の隣にいると思ってください。あなたは、どんなことを話しかけるでしょうか。
●「どこからきたの?」「兄弟姉妹はいるの?」「学校では何が好き?」「こんなアイドル知ってる?」「こんなゲーム知ってる?」「昨日テレビ見た?」きっと、聞きたいことがいっぱいあって、どこから聞いたらいいか分からなくなるかも知れません。同級生だとしたら、今日来たばかりの転校生でも、今日一日で友だちになろうと努力することでしょう。
●今、イエスは12歳の姿で、私たちと一緒にここにいてくださる。そう思ってください。そして、同級生のイエスがここにいるなら、どんなに嬉しいことでしょう。どんなに楽しいことでしょう。長崎県の五島列島という田舎に生まれた中田神父だったら、自分の知っているいろんな遊びを教えるだろうと思います。野山を駆け回って秘密の隠れ家を作ったり、海岸に行って釣りを楽しんだり、小学6年生の時にしたことをすべて教えてあげると思います。
●もちろん、勉強や運動についても同級生としていろいろ助けたり助けられたりすると思いますが、それは3つめの点として話したいと思っているので、もう少し待ってください。中学1年生の先輩でもなく、小学5年生の後輩でもなく、同級生のイエスがここにいると、そんなつもりでイエスを意識することで、ぐっと親しみを感じることができるのではないでしょうか。
●2つめの点に移っていきましょう。イエスは神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしていたとあります。これは、イエスの性格を知るための大切な手がかりになると思います。「話を聞いたり質問したりしていた」というのですから、イエスは「話を聞くこと」も「質問すること」もどちらも十分にできたということですね。
●「話を聞く」とか「質問する」とか、だれでもできるじゃない。と思った人もいるかも知れません。本当にそうでしょうか。何も苦労しないでできる人もいるかも知れませんが、苦手な人もきっといると思います。それに、「話を聞く」ということは、ただ聞いているだけではなくて、もっと深い意味があるのです。そのことも合わせて、考えを進めていきましょう。
●「話を聞く」。これは、耳から入ってくるものを、よく聞いて理解するということを含みます。聞いたけれども、何も分からなかったというのではいけません。耳を澄ませ、しっかり聞いて、話していることを理解するのです。そこまでできて、「話を聞く」ということは完成します。
●ある人は、話を聞くのが苦手です。人の話をまったく聞いていない人もいます。一方的に自分の言いたいことだけを話す人もいます。クラスで話し合いを持ったとしましょう。話し合いの司会を友だちがしているのに、司会者を無視して話し合いをこわしてしまう人もいるかも知れません。または、司会者になりたがる人で、司会者に選んでみたらだれにも話をさせないで自分一人で決めてしまう人もいるかも知れない。
●こんな「話を聞くのが苦手な人」は、話を聞いているイエスの姿をしっかり目に焼き付けて欲しいと思います。イエスは、本当な神のひとり子なのでだれよりも知識があったけれども、そこに集まっていた人たちの話を注意深く聞きました。だれかに意見を求めることも必要がないほど完全な知識を持っていたけれども、話している人の気持ちをよく理解しようとして、耳を傾けたのです。
●こんなイエスが、私のそばにいるとしたらどうでしょうか。私はイエスに話を聞いてもらいたいと思うのではないでしょうか。どうぞ、少年イエスに話しかけてみてください。私が話すことは2000年たった時代の話で、聞いたらびっくりすることばかりかも知れないけれども、私の話を聞いてください。そんなつもりで、イエスに話しかけてみてください。
●「話を聞く」と同時に、イエスは「質問した」とあります。質問が得意だという人はいるでしょうか。授業中に先生から「質問のある人、手を挙げてください」と言われたときに、先生の話をよく聞いた上で、ふさわしい質問をするのは簡単なことではないと思います。先生はみなさんがピント外れな質問をしたとしてもしっかり受け止めてくださると思いますが、手を挙げて質問するというのはなかなか勇気の要ることですよね。
●イエスは、神殿の境内で自分を取り囲んでいた学者たちに堂々と質問をしたようです。たとえばそれは、教室に学校中の先生が集合して、そこに6年生一人が参加して、先生方に堂々と質問をしているようなものです。その様子を想像するだけでも、少年なのにイエスはすごいんだなあと思います。みなさんはそう思いませんか?
●もしかしたら、こう考えるかも知れません。「イエスは神の子で、すべての知識を持っていたから、堂々と質問できるのは当然だ」。本当にそうでしょうか。周りにいるのはすべて自分よりも何倍も年長の人たちです。この人たちに、落ち着いて適切な質問をするのは、少年イエスにとってそんな簡単なことでしょうか。中田神父は、そんなに簡単なことではないと思っています。イエスは、質問を準備するすばらしい知恵と、落ち着いて質問する勇気をあわせて持っていたのです。
●このイエスが、私たちのそばに今おられると考えてみましょう。12歳の少年イエスは、話を聞くことも、適切な質問を返すことも立派にできました。苦手だなあ、と思っている人がいたら、どうぞ今私たちのそばにいる少年イエスに、話しかけてみてください。イエスは、あなたの得意な面と不得意な面を注意深く聞いて答えてくれると思います。
●3つめは、「話を聞いていた人が皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」ということです。「イエスの賢さ」についてです。みなさんは自分で自分のことを賢いと思いますか。あるいは、「あの人が賢いと思う」そんな人が同級生の中にいますか。
●「賢い」もいろいろあるでしょう。よくない使い方もされたりします。「悪賢い」「ずるがしこい」とかです。賢さは、多くの場合は喜ばれるのですが、使い方を間違うと人に嫌われることになります。賢い人は、与えられたその賢さ、「賢明さ」をよいことのために使わなければなりません。イエスは持っていた賢さを神をたたえるために、聖書を集まっていた学者に解き明かすために、賢明に使ったということです。
●過去を正直に打ち明けたいと思います。中田神父は小学生の時、神から与えられた賢さを多くのよくないことのために使ってきました。1つ、苦い体験を打ち明けます。たくさん打ち明けるとみなさんがショックを覚えるかも知れないので、1つだけにしたいと思います。それは、中田神父が通っていた教会に関わることです。ふるさとの教会では、学校の勉強とは別に教会学校という勉強が行われていました。みなさんの小学校の宗教の授業のようなものだと思ってください。
●週に一度、その教会学校は開かれていましたが、中田神父はいつもその時間、学校のグランドに行って教会学校に関わりのない友だちと一緒に外で遊んでばかりいました。もちろん、教会学校のために決まった時間になるとまじめな友だちは教会に向かうわけです。その時間だけは、体育館の陰に隠れて遊びを中断しました。そして友だちが見えなくなると遊びを再開し、また教会学校が終わる頃には自分たちの遊びも終えて家に帰っていたのです。
●当時中田神父の家では父親は遠洋漁業に出かけ、1ヶ月のうち3日しか帰ってこない厳しい仕事をしていましたし、母親は野菜作りに精を出していましたので、教会学校にまじめに通っているかどうか、頻繁に確かめることができなかったのです。
●けれども、年に一度、勉強したことを確かめる試験が行われていました。ここで成績が悪ければ、当然勉強していなかったことは分かりますし、もしかしたら教会学校にほとんど行ってなかったこともばれてしまうかも知れません。ところが、中田神父は大変ずるがしこかったので、毎回学期ごとの試験をパスしてきたのです。
●種明かしをすると、こういうことです。年に一度の試験は、問題が100問くらい用意されていて、その中から10問だけ質問するという形式でした。教会学校に参加しているすべての生徒が毎年この試験を受けます。試験をするのは教会の主任司祭でした。主任司祭は、順番に並べられた生徒を一人ずつ前に立たせて、選ばれた10問の質問をするのです。
●順番を待っているあいだ、少年中田輝次は心臓が飛び出そうに緊張していたのですが、一つのことに気が付いたのです。主任司祭が問題を10問選ぶときに、ある決まった方法でそれを選んでいることに気付きました。たとえば1番の人には100問の中から1番11番21番31番41番というふうに、決まった感覚で問題を選んで質問していたのです。
●しばらく様子を見ていましたが、間違いなくその通りに問題を選んでいました。中田神父の順番は15番目くらいだったでしょうか。と言うことは、5番15番25番35番というふうに質問されるはずです。少年中田輝次は思いきって、その場で5の付く問題だけを覚えて順番を待ったのです。
●予想通りでした。私は5の付く番号の問題だけを正確に暗記して、質問に的確に答えたのです。これで、少なくとも両親の前では教会学校をサボっていることはばれませんでした。もしかしたら、全部ばれていたかも知れませんが。ずるがしこい少年は、いつもその場を切り抜けていたのです。
●これは、よくない例です。少年イエスは、その賢さをよいことのためにすべて向けていきました。よいことについて、だれよりも賢いイエスが私たちのそばにいてくれます。私は少年イエスにどんな声をかけたらよいのでしょうか。「お願い、分からないことがあるんだ。教えてくれないかなあ」「じつは相談したいことがあるんだけど、聞いて欲しいんだ」「すごく迷っているんだ。助けて欲しい」そんな思いを、素直に話してみたらいいと思いますよ。
●4つめの点を考えてみましょう。神殿でのできごとが終わってから、イエスは「ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」とあります。「両親に使えている少年イエス」を想像してみましょう。イエスは、ナザレに帰ってから、両親の言うことをよく聞いていたということです。
●みなさんは両親の言いつけをよく聞いているでしょうか。言うことを聞かない、両親を心配させる人はいないでしょうか。「両親に使える」という言い方は、きっと両親の手伝いをよくしたということだと思います。台所で料理を作っているお母さんの手伝いをするとか、自分の部屋の掃除や自分の洗濯物を自分で洗濯するとか、そういうことってしたことあるでしょうか。
●または、お父さんがこれこれを持ってきてーとか言われたときに喜んで持って行くとか、ときには肩もみをするとか、そんな身近なことでも手を貸してあげたら、きっと喜んでくれると思います。「両親に使えた少年イエス」に倣って、何か手伝ってあげることはすばらしいことだと思います。
●イエスに、「昨日お母さんの手伝いをしたんだよ」とか「お父さんが肩もみをしてくれって言うから、肩もみしたんだ」とか話しかけることができたらすばらしいと思います。少年イエスは、両親に使えて暮らしました。だから、みなさんが両親の手伝いをしたときの気持ちとか、だれよりもよく分かってくれると思います。それが私たちの隣にいてくれる少年イエスだと思うのです。12歳の少年として、同じ気持ち、同じ思いを持っているので、いちばん分かってくれる人だと思うのです。
●5つめの点に移りましょう。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」というのが最後のポイントです。12歳の少年イエスは、これからどんどん知恵が増し、ぐんぐん背が伸びて、父である神と、両親を含む多くの人に愛されていきました。
●私たちもまったく同じです。これから小学校を卒業して中学生になると、もっと広く、もっと深い勉強に進むことになります。今みなさんは、自分たち6年生と、中学1年生とはまったく違うと感じているのではないでしょうか。学年で言うと、1つ学年が上がるだけですが、5年生が6年生になるのと、6年生が中学1年生になるのとではまったく違う気がしませんか。
●5年生から6年生になったときは、同じ学校に同じ服で同じ履き物を履いていきました。けれども、6年生から中学1年生になると、学校が変わり、制服も変わり、靴も変わると思います。学校にいる先生もすべて変わり、学校のどこを探しても小学校の時の記憶を見つけることはできないことでしょう。すっかり変わって、その中で育っていくみなさんも見違えるほど成長していくのです。
●12歳から背が伸び始めます。面白いですねー。今までもきちんと食事をしていつもどおりに生活しているのに、12歳からどんどん変化が起こってきます。中田神父も6年生の終わり頃からどんどん背が伸びて、靴も大きくなっていきました。でも最後はあともう少し背が高くなりたかったんですけど、168cmで止まってしまいました。体重は、今でも成長し続けています。髪の毛はどんどん無くなってきています。悲しいです。
●中田神父の体験ですが、背が伸びるからと言ってぶかぶかの服を買ってもらったことがありました。最後はその服も小さくなってしまうほど成長しましたが、買ってもらったときは袖も長くて本当にぶかぶかでした。こんな服着たくないと思ったこともありましたね。
●ほかにも膝を曲げるたびにポキンポキンと音がしたりニキビがいっぱいできたり、いくら食べてもお腹がすいたり、バスに乗るときに小学生ですと言ったら「本当に小学生?」と聞かれたり、いろんなことがありました。12歳から男子も女子も体に大きな変化が現れます。驚いたり、戸惑ったり、期待していたほど変化がなくて落ち込んだり、ほかの同級生と一緒にいるのがイヤだったり、たくさんのことを体験していきます。
●その、同じ体験を私のそばにいるイエスも通っているとしたらどうでしょうか。今12歳の少年イエスは、きっと私たちと同じ体験をこれからすることでしょう。体の変化に戸惑ったり、ニキビができて困ったかも知れません。または思ったよりも背が伸びずに、落ち込んだかも知れません。
●もちろん想像して言っているわけですが、これだけは確かに言えるでしょう。それは、同じ12歳だから、きっと同じ道を通ったに違いない、ということです。あなたが6年生になって体の変化に戸惑ったとしたら、少年イエスはその気持ちをいちばんよく理解できるはずです。同じ思いをしっかりと受け止めてくれるはずです。だから、今心の中にある思いを、素直にそばにいてくれるイエスに打ち明けたらよいと思います。
●少年イエスは神と人とに愛されて育っていきました。少年時代のイエスは、神に愛される人、人に愛される人について教えてくれます。詳しいことが書かれていないので例を挙げるのは難しいのですが、愛情をいっぱいに受けて育つ姿は十分想像できます。
●考えるヒントとして、愛情をいっぱいに受けて育つ人と正反対の姿を想像してみましょう。それは、愛情を注いでくれる人を悲しませるような態度です。神は、私たちに命を授けてくださいました。その命が形になったのがこの私の心と体です。心はもちろんですが、私の目、耳、口、手、足、すべての部分が神からいただいた命が形になったものです。神は、あふれるほどの愛情で私の心と体を授けてくださいましたので、私の心と体を使って神を喜ばせることが期待されていると思います。
●もしも、私の手や足、目や口を神を悲しませるようなことに使ったとしたら、私は愛情いっぱいに育っている人とは言えなくなります。愛情は注がれましたが、私はその愛情に答えずに、悲しませているからです。他人に対する暴力、はっきり意識してのいじめ、言葉で人を傷つけることなど、これらが私の毎日の暮らしの中で行われているとしたら、「神に愛されている」人とは言えなくなってしまいます。
●神は肉眼では見えません。そこで愛情いっぱいに育っていることを表現する第一の相手は両親ということになります。明らかに両親を悲しませるような態度や言葉は、「人に愛されている」姿ではありません。幸いに私たちが両親にあふれるほど愛情を注いでもらっているなら、私たちは両親を喜ばせる必要があると思います。それは何も両親の機嫌を取るということではなくて、私はあなたの子どもでよかった、あなたの子どもで幸せですということを、毎日を喜びのうちに過ごすことで両親に伝えることだと思います。
●こうして、両親が悲しむようなことは決してしない、それと毎日を喜び一杯の気持ちで過ごすようにすれば、私はそばにいてくれるイエスと友だちになれます。少年イエスは、神と人とに愛されました。私たちが、愛情いっぱいに毎日を過ごすなら、私とイエスとは本当の友だちです。
●悪いことをする人同士も仲間と言ったり友だちと言ったりしますが、彼らは本当の友だちではありません。本当の友だちは、よいことで同じ考えを持ち、話が合う人のことです。友だちについては、2回目の話でじっくり話したいと思います。
●さあ、これで1回目の話が終わります。私のそばには、イエスが共にいてくださいます。イエスの姿は、いつも教えられているような12人の弟子を引き連れ、みんなの集まる場所ですばらしい話や奇跡を行う姿だけではありません。少年イエスの姿もあります。12歳の、私たちの気持ちをいちばんよく知っているイエスと、これからも中学・高校・大学・社会に出てもずっと一緒に歩いていくことにしましょう。