主日の福音06/10/01
年間第26主日(マルコ9:38-43,45,47-48)
私たちは一杯の水を与えたことがあるのです

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(9・41)。今日はこの、イエスが取り上げた「一杯の水」「一杯の水を飲ませてくれる者」を私たちの生活の中で見つけましょう。身近なところでイエスが取り上げた「一杯の水」を見つけるなら、私たちはイエスの言葉に固く信頼を置いて生きることができるようになります。

一ヶ月前のことだったでしょうか、私が伊王島からの船に乗り長崎の大波止に降りたとき、傘の用意をしてなかったところに雨降りに遭いまして、夢彩都までのあいだを小走りに走っていたときのことです。伊王島の信者さんだなあと分かる人を一人見つけまして、「雨になったねぇ」と声をかけました。その方は雨の中、傘を持ってない私に「よかったらこの傘使いませんか」と言ってくれたんです。

天気は不安定で、確かに雨も降っていたのですが、じつはあの日は長崎でバイクに乗るつもりでいたので傘の申し出を遠慮しました。あとでバイクに乗ってからの話、思いっきり雨に降られまして、琴海にある大型店に駆け込んだあと30分ほどそこから出られませんでした。バイクに乗りながら傘はさせませんが、傘を勧めてくれたのは正解だったと思います。

一つの例を挙げてみました。雨降りの中、お互い傘は必要なわけですが、「キリストの弟子だという理由で」傘を使いませんかと勧めてくれたあの親切は、「一杯の水」だったのではないかと思います。

ここでもう少し、当時の水事情も含めて「一杯の水」について考えておきましょう。イエスが住んでおられたパレスチナ地方は、冬に雨が降る以外は一年を通して乾燥した土地です。雨はいっさい降りません。実際2000年の夏にイスラエル巡礼をしたとき、2週間で一滴も雨は降りませんでした。それほど乾いた土地ですから、水は大変貴重なのです。

当時水を手に入れる方法は、一般的には井戸からくみ出すというものでした。井戸も、各家庭にあるわけではなくて、町の中に何箇所かしかないわけです。それを苦労して汲んできて、自分たちの飲料水や生活用水にしていました。このような点を踏まえて「一杯の水」を考えるならば、案外貴重な一杯だったかも知れません。コップ一杯の水が大変貴重であれば、それを人に譲る、キリストの弟子に譲ってあげるというのは、大変勇気のある行動だったのかも知れないということになります。

ですから「一杯の水」はつまり、その人にとって大事なものを分けてあげる、譲ってあげるということを表しているわけです。雨だなあというときに寛大に傘を譲ってくれた人は、自分も伊王島に戻ればすぐに傘が必要だと知りつつ、それを寛大に譲ろうとしたわけです。ですから私はこの人は確かに「一杯の水を飲ませてくれる人」だったと思います。

ほかの例を考えてみましょう。私たちの教会には幸いに絵葉書セットがあります。みなさんも一度はお買い求めになったことがあるかも知れません。この絵葉書、たとえば誰か遠方の親戚に送ったりする場合には、送料がかかります。絵葉書をプレゼントするために、おそらく絵葉書代の500円以外に、送料も自分で引き受けることになるでしょう。送ってくれた相手は喜ぶでしょうが、送る私は、小さな額とは言えいくらかを負担しなければなりません。

こういうとき、絵葉書を送ってくださるみなさんは、この教会の絵葉書を喜んでくれるあの人のために、そういう気持ちで喜んで出費をしてくれているのだと思います。それは、やはり「一杯の水」なのではないでしょうか。送る相手は、教会の絵葉書を喜んでくれる相手です。教会のことを喜んでくれるキリストの弟子だからという理由で、絵葉書を送る送料を負担してくれるみなさんは、すでに「一杯の水を飲ませてくれる者」なのではないでしょうか。

さらに寛大な方もいらっしゃいます。いろんな機会をとらえて、たとえば年忌であるとか月の命日であるとか、あるいは何かの記念日に家族のため親戚のため、亡くなった方々のためにミサを捧げてくれる人です。このような人も、ミサを捧げたい相手が信者だから、キリストの弟子だから、きっと喜んでくれる。そう思ってミサを捧げているのだと思います。このような人もまた、「一杯の水を飲ませてくれる者」なのです。

私は、司祭館の建設のおりに、さらに寛大な多くの人と出会いました。司祭館の建設は世帯あたりの割り当てが信徒総会で決められていたわけですが、その上にさらに寄付を申し出てくださったたくさんの人のことを決して忘れません。この人々も「一杯の水を飲ませてくれる者」です。この司祭館が自慢できるとすれば、それは建物が立派だと言うことよりも、むしろ小教区のすべての人が、「キリストの弟子だという理由で、教会建設のために一杯の水を飲ませてくれた」そのことがいちばんの自慢だと思うのです。

こうした「キリストの弟子に対して一杯の水を飲ませてくれる者」にイエスは何と言っているでしょうか。「必ずその報いを受ける」と言っています。イエスが「必ず」と言ったことは必ず起こります。私たち人間が「必ず」と言ったときとはわけが違います。イエスが報いを約束すればそれだけですでに確かな約束ですが、「必ずその報いを受ける」と念を押しているのは特別な気持ちからなのです。「キリストの弟子だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる者」を、イエスは決して忘れないと言う強い決意の表れだと思います。

こうしていろんな場面を考えてみると、私たちはこれまで何度となく、「キリストの弟子」に「一杯の水」を与えて来たのだと思います。イエスが「必ず」と言ったその報いは失うことはありません。これからも、私にできる「一杯の水」を、キリストの弟子に施していきましょう。そして、決して失うことのない報いを、さらに一つでも二つでも積み上げて人生を全うしていきたいと思います。
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(マルコ10:2-16)
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