主日の福音06/09/24
年間第25主日(マルコ9:30-37)
すべての人の後になれますか?

今日の福音朗読は、二度目の死と復活の予告から始まっています。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(9・32)とありますが、一度目の予告のあとに弟子の代表であるペトロが「サタン、引き下がれ」(8・34)と叱られたあとのことですから、弟子たちが何も尋ねられないのはよく分かります。どんな人も、また叱られるのではないかと思えば、尋ねたいことも尋ねられないものです。

弟子たちはそれでも懲りないのか、「だれがいちばん偉いか」というようなことを途中で議論していました。だれがボスなのかという議論は人間に限ったことではありません。つい最近稲佐山に車で上がってきましたが、そこにはサルが集団で生活し、見せ物になっていました。

このサルたちも、だれがいちばん偉いかをいつも争っています。冷静に考えれば、弟子たちが熱中していた議論は、サルがいちばん問題にしている程度の話題だったわけです。「途中で何を議論していたのか」というイエスの言葉は、「早くそんな愚かな議論から離れなさい」と言っているかのようです。

「いちばん先になりたい」とか、「いちばん上になりたい」という議論は、かえって人間を動物のレベルに下げてしまいます。そこでイエスは、人間が最も高められるような形でいちばんを目指す道を示そうとされました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9・35)。

そうは言っても、たとえば明日の町民運動会でグランドを走れば、だれかが一番になって、だれかがビリになります。まだどこかの地区が優勝して、どこかの地区が最下位になるかも知れません。運動会での競争はまったく気にしなくてよいのです。運動会で順位をどれだけ競っても動物のレベルに下がったりはしません。

動物は競争して一番を目指すとか優勝するとか、そういうことをいっさい考えたりはしません。ですから、今日イエスが問題にしようとしている「だれがいちばん偉いか」とは別物だと考えてください。むしろおおいに優勝を目指して欲しいと思います。

イエスが教えたかったのは、たとえば動物でも競争をするような事柄にうつつをぬかすのではなく、イエスが示そうとする「人間だけが目指すことのできる高い理想」に目を留めなさいということだったのです。そして意外に思うかもしれませんが、その高い理想は自分たちの足下に、大人たちにまとわりつく子どもたちを受け入れることにあるというのです。

イエスは「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」(9・35)のでした。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(9・36)。持っている力を見せつけるような人になるのではなく、小さな子供、つまり弱く小さな相手を寛大に受け入れる人になるようにと教えるのです。

このような、人間にしか理解できない偉大さをもう少し考えるために、「すべての人の後になる」ということを考えてみましょう。すべての人の後になると、順番も最後になってしまいます。船に乗る順番にたとえると、いちばん最後に乗り降りすることは、だれも好まないのではないでしょうか。私の場合で言うと、いちばん後ろでは相当なストレスになると思います。自分がいちばん後ろだから、これですべての人が乗り降りしたことが分かった。あーうれしいとは、なかなか言えないと思います。

車に当てはめて考えてもよいでしょう。車の列の最後尾にいると、前の状況が全く分からず、なぜこんなに長い列になっているのかつかめないので、きっとイライラが募るだろうと思います。また、高速道路などでは、先頭車が事故を起こせば重大事故も起こりえます。できればもらい事故を受けたくないので、自分が先頭にいるような状態にいつもしておきたいと思うものです。そうしてみると、どの場合であっても「すべての人の後になる」というのは人間であってもそう簡単には理解できない価値観なのです。

それでは、イエスが示した生き方は、どのようなたとえを使えば理解できるのでしょうか。私は、イエスご自身の生き方に説明を求めなければ、なかなか理解できないのではないかと思いました。つまり、死と復活によって人間を救ってくださったイエスを受け入れることができなければ、「すべての人の後になり、すべての人に仕える」(9・35)生き方を受け入れることはできないのではないでしょうか。

イエスは三度の予告で念を押した通り、十字架の上で命を捧げ、復活します。十字架上の死は、不法な裁判と指導者にあおられた群衆の叫びによるものでした。罪もないイエスが亡き者にされた、それはすべての人間よりも低いものとされたということではないでしょうか。言い換えれば、イエスの十字架の姿こそが、「すべての人の後になり、すべての人に仕える」姿だったのです。私たちがイエスを信じているというなら、十字架にかけられ、すべての人の後になったイエスが間違っていなかったのだと言えなければならないのです。

まだ、私たちには十分な理解がないかも知れません。イエスを信じていることに疑いの余地はありませんが、私の生活の中でイエスが十字架にかかってすべての人の後になったように、船の乗り降りでいちばん最後に回ることはまだ受け入れられないかも知れません。いざとなれば、私がいちばん最後の順番で乗り降りしても構わない。そのような心になって初めて、十字架にかかって死に、復活したイエスをより深く理解したことになるのだと思います。

すべての人の後になることは、今の私にとって受け入れることができるでしょうか。もしも、私が最後に船に乗り降りするというのが絶対に許せないことだとしたら、試しに実行してみて、十字架の上からすべての人の後になりなさいと呼びかけているイエスに耳を傾けることにしましょう。こうした態度は、他の動物では絶対に理解できない価値観でもあるし、何よりも自分を無にしてすべての人の後になったイエスに見習うことになるのです。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第26主日
(マルコ9:38-43,45,47-48)
‥‥‥†‥‥‥‥