主日の福音06/09/17
年間第24主日(マルコ8:27-35)
イエスに「はい」と答えるのはそう単純ではない

非常に強い台風13号が接近しつつあります。台風が襲いかかるときほど、私たち人間にできることはほんの少ししかないことを思い知らされます。去年でしたか、台風がもたらした大雨で川が氾濫し、家が流され、屋根が橋桁にぶつかる様子がテレビに流れたことがありました。あんなひどい場面を目の前にしても、私たちには黙って見ているしかありません。

家を失わないまでも、厳重に家の周りの対策をしたあとは、私たちにできることと言えば台風の進路予想をじっと見守ることくらいです。たとえ台風の進路予想をどれだけ見続けても、台風が過ぎ去った後にしか私たちには動くことはできません。天気予報よりも早く台風の動きを読むことはできないわけです。この時ばかりは、天気予報に全面的に信頼を寄せることになります。

さて、イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8・34)と仰いました。今日はこの呼びかけに注目したいと思います。イエスが「わたしに従いなさい」と呼びかけたとき、私たちはほぼ間違いなく「はい」と答えるわけですが、私たちが返事する「はい」の中身をよく考えてみるとためになると思います。

まず、イエスに従うという態度は、今近づきつつある台風に備えている私たちの姿に似ていると思います。私たちは今天気予報に細心の注意を払い、刻々と変化する情報に応じて対処しなければなりません。だれ一人、天気予報を無視して、先走ったことをすべきではありません。そのように、イエスに従うということは、イエスの声に細心の注意を払い、決して先走ったことをせず、呼びかけに応じて対処が必要です。

天気予報が一致してこの進路で進むと言っているのに、「いや違う。台風は反対に進むから、天気予報を信じてはいけない」と誰が言えるでしょうか。仮にそういうことを言う人がいたとしても、私たちはその人を信じるべきではないと思います。気象予報士の予報は、最新の気象学の知識と気象衛星からのデータをすべて考え合わせての結論です。一人の人間の知識で変わるはずがありません。

人間が判断する台風情報ですら、全面的に信頼するのですから、イエスが弟子たちに打ち明けたことは、イエスでしか分からないことも含めて、すべてのことを考え合わせて打ち明けているのですから、その言葉を遮ることは誤りのはずです。

イエスが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と打ち明けたとき、それはすべてを見通す方が最終的に言われたのですから、誰もその言葉を遮ることはできないはずなのです。ところがペトロはイエスに全面的な信頼を置くことができず、イエスの言葉を遮り、いさめたというのです。イエスが打ち明ける一つひとつの言葉に、私たちが慎重に耳を傾けることがどれほど大切か、ここに表されていると思います。

次に呼びかけをする立場に立って考えてみましょう。気象情報をもとにテレビやラジオやマイク放送で呼びかけをする人は、聞いている人全員が呼びかける人の言葉に細心の注意を払って聞いていることをよく理解していなければなりません。呼びかける人の一言が多くの人の生命財産を守ったり危険にさらしたりするのですから、慎重に知らせるべき内容を検討しなければなりません。

イエスも、「わたしに従いなさい」と仰るとき、聞く人すべての運命を背負っています。ですからイエスは全責任を担って、従うことを求めるのです。イエスに従った人の運命に全責任を持って、私に従えば命を救うことになりますと、固く約束してくださるのです。

中には、一つの間違った放送が地域住民全体に大きな被害をもたらすこともあります。これこれの地域は避難の必要はありませんと、住民全体に間違った情報を流したために、何百人、何千人の命を危険にさらすことが起こりえます。そうした誤った情報で河川の氾濫を予測できず、避難が遅れて甚大な被害をこうむった例もありました。残念ながら、人間の判断は誤りが起こりうるのです。

ではイエスの判断はどうなのでしょうか。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。このイエスの呼びかけは人類全体に及ぶのですが、もしもイエスに間違いがあれば、人類全体に被害が及ぶことになります。

疑いもなく、イエスの判断に誤りは起こりえません。イエスの招きは「たぶん大丈夫です」という程度のものではなく、完全に信頼できるものです。「台風がおそらくいついつ長崎県に最接近するでしょう」というような「おそらく」の付いた情報ではなく、「命を救うためには、わたしの後に従うこと、これしかありません」という固い呼びかけなのです。

さらに、「わたしに従いなさい」とは、イエスの招きの前には、ある時は自分を横に置くことも必要になります。例えば、何年もの準備を重ねて何かの活動を立ち上げ、これでようやく動き出す準備ができたとしましょう。そこで思いがけずその活動を別の誰かに引き継いでもらうように言われたら、普通であれば納得できないことでしょう。

この活動は準備の時からすべてに私は立ち会ってきた。この活動の成功まで、あともう少しというところに来ている。私以上にこの計画を詳しく知り尽くしている人はいない。それなのに、なぜ私は活動を誰かに引き継がなければならないのか。絶対に納得いかない。そんな体験をしたことのある人もいるかも知れません。

仕事のことだけを考えれば、もしかしたら私の考えは正しいかも知れません。けれども、信仰者として、「わたしに従いなさい」という呼びかけを考え合わせれば、このような形で自分を横に置かなければならないとしても、私はイエスに従うことを優先した方がよいと思います。実際イエスは、かなり厳しい口調で私たちに従うことを求めています。「自分を捨てて従いなさい。自分の十字架を背負って、従いなさい」。私たちは一方ではこの世に生きる者としての強い信念がありますが、一方ではイエスに従うことのために、自分を捨てる覚悟も必要なのです。

ここまで考えると、「わたしに従いなさい」というイエスの呼びかけに「はい」と答えることは、それほど単純なものではないということが分かります。「はい、イエスに従います」と言うからには、決してイエスの言葉を遮ったりせず、全面的に信頼することが必要です。また、求められていることが納得いかない場合に、それが最終的にイエスの求めであると思ったならば、自分を捨てて従う、十字架として担っていく覚悟も必要です。こうしたことを考え合わせての「はい」なのです。

台風がやってきて、家の中から一歩も外に出ることのできない時間がやってくるかも知れません。おそらくその時間何もできないのですから、私はイエスに自分のすべてをかけて「はい」と言えるのだろうか。そういうことを考えてみてはいかがでしょうか。何もできないときにこそ、イエスに信頼を寄せるまたとない機会だと思います。
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(マルコ9:30-37)
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