主日の福音06/09/10
年間第23主日(マルコ7:31-37)
人間には不可能でもイエスには可能です

今日朗読された箇所で行われた奇跡、「たちまち耳が開き、舌のもつれが解けてはっきり話せるようになった」この場面は、イエスが直接働きかけるならば、この人間世界において奇跡は起こりうるということを物語っていると思います。

私は、今でも身近なところでイエスが直接働きかけ、奇跡は起こっていると信じている一人です。昨日も、奇跡的に見つかるはずのないものが見つかりました。それは、ある人の洗礼の記録です。名前は出しませんが、よく見つかったなあと心から神に感謝しています。

どんな方の洗礼の記録かと言いますと、転出した人の記録で、転出先の教会が敬老者の対象になっている人の洗礼の記録を掘り起こして、敬老の日にあらためて一人ひとりの洗礼の恵みに感謝しましょうという試みなのだそうです。たまたま、私たちの小教区に関わっているある夫婦の調査依頼が届きまして、ひとまず調査に取りかかりました。

奥さんは誕生日と洗礼の記録ときちんと向こうの教会に登録されていてそれをこちらの小教区の原簿と照らし合わせ、間違いなく洗礼を受けています、番号は何番で、代母はだれで、授けた神父様はだれですとすぐに見つかったのです。ところが、ご主人の洗礼の記録が、どうしても見つからなかったのです。

残念ながら、問い合わせをしてきた教会には次のように答えるしかありませんでした。「奥さんについてはすぐに調べがつき、こちらで台帳の記録も見つかりましたが、ご主人に関して、洗礼を受けたとされる日付では、洗礼の台帳に記録がありませんでした。今のところご主人に関しては証明のしようがありません。堅信の記録などをさらに教えてもらえば、洗礼につながる何かが見つかるかも知れません」。もちろんこんな返事はしたくはありませんが、証明できないのですから仕方ありません。

ところが、調べの付かなかったご主人の記録について、返事したその教会から再度調べて欲しいと依頼が来たのです。こちらは綿密に調べてこれ以上調べようがないというのに、どうしろというのだろうかと思っていたのですが、思わぬことで大きく展開したのです。調べが付かなかったご主人のさらにその親の記録によると、ご主人はこちらの小教区で洗礼を受けたのではなく、当時大司教館が置かれていた大浦で洗礼を受けていることが分かったのです。

まさに奇跡的な出来事でした。調べて欲しいと言われていた本人がすでに75歳です。その75歳の人の両親の記録と言えば、100年以上前の記録になります。ある意味で、見つかったのは奇跡だと思ったのです。こんな身近なところで、奇跡は起こるのだと実感しました。

今回の調査は、私の力で答えにたどり着いたとはとても思えません。そうなると、これはもう神様が私の目を開いて小さな小さな解決の糸口にたどり着かせてくださったとしか考えられないわけです。おそらく、私の耳にはイエスの「エッファタ」という声が聞こえたのだと思います。「エッファタ」これは「開け」という意味でした。イエスが、見えなくなっていた私の目を開くため、天を仰いで深く息をつき、「エッファタ」「開け」と言ったに違いない。そうとしか考えられないと思いました。

イエスが直接働きかけてくれなければ、おそらく事態は一歩も前に進まなかっただろうと思います。洗礼台帳に明確な記録がない以上、どれだけ再調査を依頼されても「こちらには記録がない、これ以上調べようがない」としか答えようがないからです。まったく出口の見つからないところにイエスが直接働きかけてくださり、見えない私の目が開かれ、もしやこういうことではないだろうか、そうだとしたら100年以上前の話になるけれどもこの人の両親の記録があれば、何か分かるかも知れない。このように考えることができたわけです。

皆さんは、神父さんの体験は奇跡と言うほどのものじゃないと思うかも知れません。けれども、私の考えでは絶対に解決の糸口は見つからないと思っていたことが解決したのですから、奇跡と言えるのではないでしょうか。いったん無理だと判断したことを、そんなに簡単に無理じゃないと考えを改めることができるものでしょうか。私はこうした体験が、神様が直接働きかければ、絶対に起こりえないと思われていたことでも起こりうるのだという証明になると信じております。

神様が望んで、直接、また具体的に働きかけると、誰も変えられないものでも変わりうるということを今日は学びました。私たちが変えるのではありません。神様が驚くべき業を行います。私たちにできるのは、「わたしにはできないことだけれども、あなたにならできます」という深い信頼の心を呼び起こすことではないでしょうか。

何度呼びかけても同じことだと思っている事柄があるかも知れません。教会の行事を呼びかけるとき、来る人は来るし、来ない人は来ない。それ以上変わらないと思っているかも知れない。けれども、変えるのは私たちではなくてイエスです。イエスに触れさせるお手伝いをすれば、いつかきっとイエスがその人を変えてくださいます。

無理と思わないで、ミサに誘ってみましょう。キリストが近くにいてくださるという実感をたくさん持たせることで、イエスはその人に具体的に働いて、変わらないと諦めていた人の心さえも変えてくださるでしょう。変えてくださるのはイエスですから、私たちはイエスのもとに身近な人を案内するお手伝いをしてあげましょう。イエスのもとに案内するにも力が必要ですから、そのための力を、今日のミサの中でいただくことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第24主日
(マルコ8:27-35)
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