主日の福音06/09/03
年間第22主日(マルコ7:1-8,14-15,21-23)
イエスの導きを受け入れることこそが神への忠実

今日はまず、ファリサイ派について勉強することから始めましょう。もともとは、「分離された者」という意味があって、律法を忠実に守るものとして一般のユダヤ人からは分離された者だという自負を表す表現でした。イエス・キリストの時代に6000人あまりいたと言われています。律法学者のほとんどの人と、少数の祭司がこの派に属していました。

イエスの時代になぜファリサイ派が台頭してきたのでしょうか。それにはわけがあります。イスラエルの人々はモーセが受けた掟を忠実に受け継いできたのですが、時代が進むにつれて、当時の掟の命じる範囲内で暮らすことが困難になっていました。イエスの時代はモーセの時代から何百年も経っており、当時では考えられなかった事情や場面がたくさん現れてきたからです。そこで、いろんな場面に合った解釈を掟に加えていく必要が出てきます。

また、神殿を拠り所にして礼拝を行ってきた祭司たちは現実の社会から逃避して礼拝の掟にしがみついていました。すでに実社会はモーセの律法の枠に収まらなくなってきていましたから、礼拝の掟に忠実であり続けるためには、社会の実情を無視するしかなかったのです。

そのような中で、現実の社会に当時のモーセの律法をどのように当てはめるか、大胆に解釈する律法学者が幅をきかせてきたわけです。律法学者たちはあらゆる場面を考えて律法に忠実であるための道をさまざまに解釈していましたが、そのあげくには自分たちでも守ることができないほど数多くの言い伝えを抱えることになったのでした。

数え切れないほどの掟は、実際には守りきれるはずもなく、彼らに残された道は昔の人の言い伝えを振り回す偽善者となることしかありませんでした。こうして、自分たちが作り上げてきたたくさんの言い伝えによって、本来の神の望みから遠く離れてしまったのです。

現実に当てはめようとして、あまりにも解釈がふくれあがったとき、本当にしなければならないことは、どうやったら生活の中で神の望みに忠実でいられるのか、誰かに教えてもらうということです。ファリサイ派の人々は行き詰まっていたのですから、本来はまことの教師であるイエスの解釈に耳を傾ける必要があったのです。ところが彼らにはその謙虚さが足りませんでした。

真っ先に、律法の唯一の正当な解釈を行うことのできるイエスに、時代に適応した律法の遵守の仕方を教えていただくべきでした。モーセの律法の精神はどのようなものであり、今の時代に、律法をどのように当てはめて生きるべきであるか。それを本当に知っているのは、ただ一人イエスだけだったからです。

ところが、ファリサイ派の人々は、昔の人の言い伝えにとらわれ続け、イエスに耳を傾けようとはしませんでした。彼らの考えは、過去に縛られ、それも、人間に過ぎない者の解釈に固執していたのです。

イエスはファリサイ派の人々を、はっきりと偽善者扱いします。律法の唯一の教師、唯一の解釈者であるイエスに耳を傾けない彼らは、熱心さは評価できたとしても、けっきょくは間違っていたわけです。イエスに解釈を仰ぐ、イエス様の判断に心を開いて、委ねる。そうした態度こそが、ファリサイ派はもとより、すべての人に求められていたのです。

ファリサイ派の人々はイエスに心を開かず偽善的な態度から抜け出すことができませんでしたが、今日ここで私たちが考えたいのは、私たちも、ひょっとすると、ファリサイ派の人々と同じ態度に陥る危険がある、ということなのです。

ひとつの例を挙げたいと思います。6年前、2000年4月に、「主の祈り」が全面的に新しくなりましたが、当初は(今もなお、という方もいらっしゃるかも知れませんが)、「自分たちは長く昔の『天にましますわれらの父よ』を唱えてきたから、いまさら『天におられるわたしたちの父よ』に移っていくようにと言われても、覚え直すことなどできない」と思われた方もいらっしゃるかと思います。

ですが、日本の16教区の司教様方が集まって、日本のカトリック教会の公式の祈りとして採用したのには、それなりの重大なお考えがあったのだと思います。「昔の祈りが言いやすいし、覚えてもいるので、昔の祈りから変える理由はない」とは、ごもっともな意見ではあるのですが、ここで今日の福音の教訓を活かしていただけたらと思っています。

信仰を親から子に、子から孫に伝えると言うことについて、腹を割って考えてみましょう。正直言って、信仰はそれほど上手く伝わっていないのではないでしょうか。それは、守るべきこと、教えるべきことがあまりにも多くて、伝えきれなくなっているのではないでしょうか。

使徒信条、天主の十戒、公教会の六つの掟、さらに幼い頃山のように覚えさせられた要理、それから祈祷書の中にある種々の祈り、細かいことでは食前食後の祈り、よくまあ覚えたものですが、それらを暗記すべきものとして次の子どもや孫に引き継がせるというのは、もはや不可能なのではないでしょうか。

そこで日本の教会は、主の祈りを一つの例として、暗記すべきものとしてではなく、繰り返し唱える中で自然と身に付くような祈りとなるように、新しく口語体の祈りに切り替えたわけです。「天にましますわれらの父よ」という言い方は普段の暮らしの中で決して使いませんが、「天におられるわたしたちの父よ」という言い方でしたら暮らしの中で使っている言葉です。

主の祈りについてまとめると、日本の教会は今の時代の必要に応えて、祈りを暗記するものとして示すのではなく、意味を理解してなじんでいくものとして示すために、大きく梶を切ったと言うことです。ほかの祈りについても同じことが言えます。祈りを学ぶことが重荷になるような祈りであれば、私たちもファリサイ派の人々と同じ過ちを犯すことになるのではないでしょうか。

新しい主の祈りは、宣教の視点からも画期的な収穫がありました。今回まとめられた主の祈りは、聖公会というカトリックに近いキリスト教と一致して作成した文章です。キリストを信じるほかの兄弟たちと、一つの祈りを同じ言葉でようやく唱えることができるようになりました。どんなにすぐれていてもこれまでは同じ言葉で一つの祈りを唱えることができなかったことを考えると、今回の新しい主の祈りは、イエス様が今の時代にあって「主の祈りはこう唱えましょう」と言っておられるのと同じことではないでしょうか。

ファリサイ派人々の過ちは、清めに関する掟も含め、神に忠実であるためだと言って自分たちも守れないような規則を人々に押しつけたことでした。彼らはイエスから偽善者と断罪されたのですが、次の世代に重荷を押しつけるようなことをすれば、イエスは私たちにも偽善者の印を押すことになるでしょう。

主の祈りは一つの例ですが、神への忠実を次の世代に伝えるために、重荷ではなく喜びと感じられるような伝え方を信仰のすべてにわたって工夫してみましょう。日本の教会全体としても工夫しますが、家庭にあってもその家庭にあった工夫をすべきだと思います。そして何よりも、唯一の教師、唯一の解釈者であるイエスに、これからも常に心を開いていくように、またイエスに導かれた方々の指導に寛大に自身を委ねていくことができるよう、ミサの中で続けて祈ってまいりましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第23主日
(マルコ7:31-37)
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