主日の福音06/08/20
年間第20主日(ヨハネ6:51-58)
イエスの肉と血は何にも代えられない

真夏の八月も下旬に入りました。子どもたち学生たちはあと10日しかないなあと思っているかも知れませんが、おうちの人はあー早く夏休みが終わって学校に行ってくれんかなぁと思って・・・いるかも知れません。親の心子知らず。こういう場合は使わないのでしょうか。

皆さんは肉食の動物が獲物を捕まえて食べるシーンをテレビで見たことがあるでしょうか。どんな動物でもいいのですが、例えばライオンがシマウマを捕らえたことにしましょう。ライオンは必ず母親が狩りをするのだそうですが、母親のライオンがシマウマを捕らえて息の根を止めると、子供のライオンも含めて家族全員でそのシマウマを食べることになります。

この様子を見たとき、人によって二通りの反応をするでしょう。ある人は、なんてかわいそう、残酷だと思うかも知れません。私は反対の意見で、肉食の動物が獲物を食べるのは当然と思っていますから、おいしそうに食べているなあとしか思いません。

さらに私の個人的な考えを言わせてもらうならば、野生の動物は自分の食べる分しか獲物を捕らえませんし、食べ残しが出てもおこぼれをもらって生きるほかの動物によってすっかり食べ尽くされてしまいます。けれども、人間は食べるかどうかも分からないのにまとめ買いをし、いざ作ってみると作りすぎて、食べ残してしまうとゴミに出すのです。そういう無駄の多い食事に比べたら、かえって動物のほうが節度があると思うのです。もちろんすべての人に当てはめているわけではありませんが。

もう少しライオンのひいきをするなら、ライオンは一生懸命追いかけて捕まえてから食べています。人間はたくさん食べるので、魚でも野菜でも肉でも、まとめてたくさん育てています。ライオンは獲物にありつけずに食べられないときもありますが、人間の場合今日は食べられずに絶食したという状況はあまり考えられません。

実は今日の福音は、動物が肉を食べている場面に当てはめても良いような書き方をしています。ヨハネ福音書が選ばれていますが、先週の朗読と比べると今週の朗読にあえて使っている生々しい表現があるのです。例えば、先週の朗読で「命のパン」と表現されているものが、今週の朗読の中では「わたしの肉」「わたしの血」と言い換えられています。また、単に「命のパン」が「肉と血」と言い換えられているだけでなく、「食べる」という表現も、今週は「肉にかみつく」という意味で使う言葉が選ばれているのです。

ヨハネ福音書が書かれたもとの言葉はギリシャ語です。ギリシャ語では一口に食べると言ってもいろんな場合があって、言葉を使い分けることができるのです。日本語ではどれも「食べる」という訳になってしまいますが、今週の朗読で「食べる」と訳されているギリシャ語は「動物が音を立てて餌を食べる様子」を表すそうです。

日本語でも、例えば肉食の動物が獲物を食べるときに「いただく」とか「食す」とは言いません。あえて言えば、獲物を「食う」という表現になるかも知れません。この、「食う」という言葉を今日の朗読の中でイエス様に語らせているのです。「人の子の肉を食べる」「わたしの肉を食べる」。これは、本来の意味をくみ取ってあげると、「人の子の肉を食う」「わたしの肉を食う」となるのです。

このような、やや品の悪い表現を使ってまで言い表そうとしていることは何でしょうか。表現としては動物の食べ方なのですから、動物の食べる様子にヒントがあるかも知れません。最初のたとえで、ライオンは獲物を苦労して追いかけ、ようやく捕らえてから食いつくと言いました。

ですから私たちが人の子の肉を食べるというのは、初めから食卓に置いてあるものを易々と食べるというものではなく、追いかけてようやく捕まえてから食べる、もしもここで肉にありつけなかったら次のチャンスまで空腹のまま過ごさなければならない。そんな、命をつなぐための真剣勝負を言おうとしているのです。

ライオンは、肉が食べられないからその間は野菜を食べようとか、そういうことはしようと思ってもできません。肉食の動物は肉を食べることでしか生きられないのです。もしも長い間動物を捕らえることができなければ、たとえそこに野菜があっても飢え死にすることになります。

今日のイエスの呼びかけは私たちに同じ事を考えさせるのです。私たちはイエスを食べなければ、代わりの食べ物はないのです。イエスを食べないまま長く暮らしているとキリスト信者は飢え乾き、霊的には死んだ状態になるのです。「人の子の肉」に代わる「肉」は、この世界のどこにもないからです。

イエスに代わる食べ物はこの世界にない。そのことをよく理解するならば、確実にイエスを食べるためのチャンスを確保しなければなりません。それは信徒の皆さんだけでなく、司祭や修道者についても同じことが言えます。司祭は毎日ミサをしているのだからイエスを食べることに何の苦労もないじゃないかと思っているかもしれません。

けれども司祭は日曜日のミサにただ行けばよいというものではありません。日曜日のミサの説教を準備しなければなりません。ある意味で、司祭の説教はみことばの食卓からよく噛んで味わった実りなのですから、みことばの食卓から食べ物を得るためには、司祭は説教を準備する時間を確保しなければならないのです。

説教も生き物ですから、時間が来ればできあがるというものでもありません。2時間でうまくできあがるときもありますし、考えても考えても出てこなくて、10時間とかそれ以上かかるときもあります。それでも、日曜日のミサの始まりまでには、2時間だろうが10時間だろうが、出来上がるまでの時間を確保していなければならないのです。ライオンが何かを捕らえるために何時間でも努力するように、イエスから食べるために必要な時間は、どれほど時間がかかっても惜しんではいけないのです。

ほかに代わるものがない、永遠に生きるための肉を食べるために、わたしは今週心を配ってきたでしょうか。もし精一杯の努力をしてイエスを食べることができたなら幸いです。もしかしたら周りにイエスという食べ物にたどり着けなかった人がいるかも知れません。その人のためには、イエスを食べた私たちがお世話してあげましょう。

ちょっとしたことでいいのです。聖書と典礼を持って行ってあげるとか、説教をかいつまんで話してあげるとか、一緒に祈る時間を取るとかです。私たちがいただく肉と血は、代わりのものがないと同時に、すべての人に配られるべきパンでもあるからです。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
年間第21主日
(ヨハネ6:60-69)
‥‥‥†‥‥‥‥