主日の福音06/08/15
聖母の被昇天(ルカ1:39-56)
神の祝福は人間の想像を超えるほどすばらしい

今年、聖母被昇天の祭日の説教を考えながら、すごく基本的ですごくあたりまえのことになるほどなあと一人で感心してしまいました。それは、「祝福は神から来るものだ」ということです。祝福は神が人間に与える恵みであり、祝福の場には神がおられて人間と深く関わっているということに一人でうーんと唸っていました。

祝福を考える身近な例を紹介しましょう。この前の土曜日は、結婚式が組まれていました。確かに私は祝福の祈りを唱えました。ただ、中田神父がカップルを祝福したのかというと決してそうではありません。神がこのカップルを幸せにしてくれるようにと祝福を取り次ぐこと、それが私の使命です。

祝福するとは、気分良くさせるような言葉を連ねて相手をねぎらうことではありません。突き詰めれば幸せを与えることです。冷静に考えれば、人間が人間に幸せを与えることなんてできるはずがありません。そうであれば、本当に祝福することができるのは神だけだということは明らかです。ここまでは、私たち誰もが納得すると思います。

さて、私たちの生活の中には祝福を願う場面が結構たくさんあることに気付きます。一般的に言うと厄除けであったり安産であったり、あるいは家を建てるに当たって安全と無事を願うとか、身近なところで祝福を願っています。これら祝福に関わる事柄は、よく考えれば神がそこにいて、祝福してくださっているに違いないと思っているから、式を司る人が祈りをささげると安心するわけです。

人間へのこうした祝福は、いつからいつまで向けられるのでしょうか。それは命の始まりからです。そしていつまででしょうか。その答えが、今日の聖母の被昇天にあるのではないでしょうか。つまり、神のあふれるほどの祝福は、人間の死後も注がれるということです。

聖母がからだも魂も天に上げられたという教会の教えは、神は人間を、その命の始まりから祝福し、また死後も祝福してくださることを雄弁に物語っています。しばしば祝福を願う私たち人間は、互いに生きている間には祝福を求めるものですが、死後にも祝福を受けようとは思っていません。

ところが、祝福を与えてくださる神ご自身は、祝福が生きている人間にだけ届くのではなくて、死後にも届くということを今日私たちに示してくださったのです。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」(1・44)。

エリザベットは自分を訪ねてきてくれたマリアにこう言いました。もちろんこれはエリザベット自身がマリアを祝福しているのではなくて、神の祝福がマリアに注がれていることをたたえたものです。そしてこのエリザベットの言葉は、実際は彼女自身が理解していた以上に意味深いものだったのです。

この場面には見落としがちな一つの点があります。それは、「エリザベットは聖霊に満たされて、声高らかに言った」(1・43-44)ということです。先の言葉は、エリザベットの思い付きなのではなく、聖霊が彼女に働いて話をさせた、もっと言うと、マリアに対する神の望みが、エリザベットを通して示されたということです。マリアは、特別に祝福を受けた女性であるということです。

特別に祝福を受けているのであれば、マリアが死後に肉体の腐敗を免れて天に上げられたということは十分に考えられることです。神の祝福に満ちあふれていたマリアにはいかなる滅びも腐敗も及ぶことはなかったのです。

まとめるとこういうことになります。聖母の被昇天は、神の祝福が生きている間だけに注がれるものではなく、死後も与えられる、そしてマリアはさらに特別に、祝福に満ちあふれていることの証しとして、いっさいの腐敗から免れて天に上げられたということです。

この聖母被昇天の祭日に、あらためて祝福が神からの賜物であり、神からの賜物だからこそこれほどのすばらしい栄誉を人間に与えることができるのだと納得しました。そして終戦記念日との兼ね合いでは、紛争の絶えない多くの国々に対して「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6・28)とイエスは今も促しているのではないだろうかと感じました。
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‥次の説教は‥‥
年間第20主日
(ヨハネ6:51-58)
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