主日の福音06/08/13
年間第19主日(ヨハネ6:41-51)
天からのパンを今いただくことが永遠につながる

今週の福音は、私たちに一日一日のこと(日常)と永遠とがどのようにつながっているかを考えさせてくれます。朗読箇所から関係する一節を取り上げてみましょう。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる」(6・44)。

ここでイエスは、「父である神がわたしたちを引き寄せてくださる」ということと「終わりの日の復活」ということはつながっていると言いたいのでしょう。「父である神が引き寄せてくださる」という働きは、今この時に行われていることです。当時はイエスの直接の呼びかけによって引き寄せられていましたし、今はこうして日曜日の礼拝を通して引き寄せられています。

これに対して復活は、未来のことであり、私たちは復活によって変えられた姿を永遠に保ち続けるわけですから、永遠に関わりのある働きと言うことができます。私たちが今父である神に引き寄せられているならば、未来においては復活にあずかることができる。今何をしているか、またどのような暮らしを保っているかが、永遠に続く未来に深く関わるということです。

一日一日どのようにして暮らしているかが、永遠に続く未来の姿を形づくるというのですから、今の暮らしに十分気を配るということは大変意味のあることです。今週の朗読も、日々の配慮が永遠の命につながっていくことを考えさせるために、食べ物を例に話を結びます。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6・51)。

パンは日々食べるもののことです。パンと書いてあるからと言って、食パンやフランスパンを想像する必要は全くありません。もしも文字通りのパンだとしたら、中田神父は長いこと食べていないことになってしまいます。そうではなく、日々の食べ物のこと、今日のご飯のことと考えるべきです。私たちが三度三度の食事を心がけるように、父である神から遣わされたイエス・キリストにたえずつながっていること、この心がけがあれば、私たちは永遠の命、復活の命を未来にいただくことになるのです。

そうしてみると、永遠の命に結びついているのはずっと先のいつかではなく、今この時なのだということが分かります。今この時に、イエス・キリストという永遠の命のパンを食べなければ未来はないということなのです。今教会との関わりを拒む人がよく言う言い訳は、「暇になったら行く、歳を取ったら行く」というものですが、永遠の命につながっているのは連続した「今」であって、「あとでいつか」というような曖昧なものではないのです。

今天からのパンを食べることが大事だと分かってもらえたとして、一つ問題が出てくるかも知れません。天からのパンを食べるということが聖体拝領だけを意味しているならば、そこにはいろんな問題が起こりえます。ミサに来ても、聖体拝領しない人、聖体拝領の条件が整っていない人いろいろいらっしゃるからです。天からのパンが、聖体拝領のことだけを指しているとすれば、ミサに参加する人すべてには恵みが届かないかも知れません。

ここではっきりさせておきましょう。イエスがご自分のことを「わたしは命のパンである」と仰ったとき、それは聖体としてのイエスのことと、福音書を通して私たちに語りかけるみことばとしてのイエスと、両方を意味しています。決して御聖体だけを意味しているのではありません。ミサの前半で語られるみことば、特に福音書の中でも、イエスはご自分を食べ物として与えておられるのです。

このみことばに注意深く耳を傾けるすべての人は、ミサの中で命のパンであるイエスをいただいているのです。そして、今という時間の中でイエス・キリストとの交わりを保っているのですから、聖体拝領にあずかれなくても、福音書に注意深く耳を傾けるなら、その人はみことばの食卓から永遠の命に至る食べ物を今いただいているのです。ミサの中ではみことばの食卓と聖体の食卓の両方が天からのパンとして私たちに与えられているのです。

このことをしっかり理解すれば、説教が終わった頃にミサに参加してくる人は、みことばの食卓にあずかっていないということになります。よく聖体拝領ができるのはミサのいつ頃から参加している人ですかということが議論されますが、聖体の食卓のことを議論する前に、まずみことばの食卓を私たちはもっと大切にしなければいけないと思います。聖書が朗読されるその時から、ミサにあずかってみことばの食卓に間に合うようにしたいものです。

また御聖体については、今目の前で御聖体が準備されるその瞬間、つまり「みな、これを取って食べなさい」「みな、これを受けて飲みなさい」と司祭が唱えているときには最低でもいなければ、一般的には聖体の食卓にあずかることはできません。ですが現代の教会はあまりにも聖体の食卓だけが強調されて、みことばの食卓のことがおろそかにされている気がします。十分に天からのパンをいただくためには、みことばの食卓がもっと大切にされなければならないと思います。

日曜日の礼拝のあらゆる可能性が失われている人がもしかしたらいるかも知れません。そんな人はいないと思いたいのですが、日曜日のためのミサの時間に、自分はすでに決められた職場にいてどうしても参加できない。そんな人がもしかしたらいるかも知れません。ではそのような人は天からのパンにあずかるすべての可能性が奪われているのでしょうか。

まずはそのような人は、自分で選んだ生活の形を見直して欲しいと思います。たとえば教会の掟では日曜日にミサにあずかることが明記されていますが、本当に日曜日に来ることができないのであれば、日曜日の代わりに、平日の朝のミサに来てください。もしもそう言われて、「眠たいから無理だ」という人は、眠たければすべてがゆるされるのかどうか、胸に手を当ててよく考えて欲しいと思います。

この夏休み、一人の子は朝の8時から部活だというのに朝6時半のミサに欠かさず来ています。日曜日も当たり前にやってきて、さらに平日もミサに来てくれています。時間がないからとか、眠たいからとか、この子を前にして一体誰がそんなことを言い訳にできるでしょうか。私だって、頭の下がる思いです。

永遠の命に生きる努力は、今この時をイエス・キリストとどうつながっていくかにかかっています。命と滅びには何の関わりもありません。今この時に、命に向かう努力をしなければ、永遠の命とは無関係になってしまいます。今はまだまだ滅びの道を歩いて、いざとなったら命に至る道を歩きますと言うかも知れませんが、滅びへの道を歩いた時期は取り戻せないのです。そんなハラハラするような生き方ではなく、着実に命に至る道を歩いていくキリスト者でありたいと思います。
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