主日の福音06/07/30
年間第17主日(ヨハネ6:1-15)
イエスの「ことば」と「しるし」は今も民を養う

昨日夕方から小学生と中学1年生を集めて夏の宿泊学習を行いました。子どもたちは偉いと言えば偉いわけですが、いろんなことを絡めて考えると、この教会学校はどんな意味があるのだろうかと考えさせられることがあります。先週も話したとおり朝6時半のミサに起きてラジオ体操です。私は8月が始まる前にもうからだがギシギシ言っていて、大きい声では言えませんが日曜日や木曜日はラジオ体操がないのでホッとしています。

昨日から泊まり込んでいる子どもたちですが、何となく言うことは良く聞いているようですが、夜は枕投げをして大騒ぎ、早く寝ろと言っても寝ない、ちょっと手を焼きました。これから教会学校の集まりと言わずに、学童保育と言い直した方がいいのではないか、そんな賑やかな雰囲気です。2泊3日とか言えば大喜びするでしょうが、司祭館の冷蔵庫の中身もお菓子も無限にあるわけではありませんので、1泊で終わってくれてホッとしています。中学2年生と3年生は8月の最後の週に厳しい錬成会を予定していますので、楽しみにしていて下さい。

先週の「ことば」と今週の「しるし」朗読された箇所はヨハネ福音書による「五千人に食べ物を与える奇跡」です。今年の典礼はB年の典礼であることは何回か触れてきました。日曜日の典礼は3年周期になっていて、A年B年C年と区別します。A年の福音朗読はマタイ福音書が年間を通して読み継がれていき、B年はマルコ福音書が、C年はルカ福音書が1年間読み続けられるということでした。

さて今週の朗読である「五千人に食べ物を与える奇跡」は、ヨハネ福音書から取られています。今年の典礼はB年なのですから、マルコ福音書の流れを追うように朗読を選ぶのが本筋です。実際、「五千人に食べ物を与える」という奇跡はマルコ福音書にも書かれていて、普通に考えればマルコ福音書から当てはまる箇所を選んで朗読すれば良いのではないかと思うわけです。

それでもあえてマルコ福音書の当てはまる箇所を選ばずにヨハネ福音書の該当箇所を用いた理由が何かあるのでしょうから、少し考えてみました。朗読された「五千人に食べ物を与える」奇跡は、福音書すべてに書き残されています。つまりマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書すべてに書かれている奇跡です。大きく分けると、マタイ、マルコ、ルカの三つの記事はおおむね共通した書き方をしています。この三つと比べるとヨハネ福音書は特徴的な書き方をしていると言えるでしょう。

はっきり違いが分かる点を一つ挙げておきましょう。それは、ヨハネ福音書以外の三つの福音書では、弟子たちが群衆の食べ物の心配をして、いったん解散させて、自分たちで食べ物を見つけさせましょうとイエスに働きかけています。ところが、ヨハネ福音書では弟子たちがイエスに群衆を解散させるように促す記述は省かれていて、最初から、イエスが群衆の食べ物を心配し、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と弟子に声をかけていることになっています。

この点を典礼は重視してヨハネ福音書を用いたのかも知れません。弟子たちに促されて動いたというのと、イエスみずからが先に動き出したというのではずいぶん印象が違います。ヨハネ福音書の場合は、五千人に食べ物を与える奇跡はイエスが主導権を取って、イエスが先頭に立って出来事を進めているということを伝えたいわけです。

この点を押さえて考えると、イエスが主導権を取って五千人に食べ物を与える、先頭に立って人々を養う姿から何かを学びなさいということが今週の福音朗読の鍵ではないかなあと思います。そこで思い出すことが、先週の朗読箇所とのつながりです。先週の朗読箇所は、派遣されていた弟子たちが戻ってきてイエスに活動を報告すると、「しばらく休みなさい」と弟子たちを気遣い、また集まってきた群衆にいろいろと教え始められたという内容でした。

この様子はイエスが主導権を取って出来事を導いていることが分かります。その続きとして五千人に食べ物を与える奇跡が続くわけですから、流れとしてはイエスが主導権を取ってこの奇跡が行われるというのが流れとしてはよいと思います。つまり典礼は、先週と今週の朗読がイエスの導きのもとに出来事が行われたことを印象づけるように配慮されているということです。このような流れの中で、何が見えてくるでしょうか。

私は、一つのはっきりした姿が浮かび上がってくると思います。先週の朗読ではイエスは言葉を通して群衆に教えたのですから、ことばによって人々を養う姿が描かれていたということになります。今週は、パンを増やしてすべての人が食べて満腹したというのですから、しるしによって人々を養う姿が描かれているわけです。

ことばとしるしによって、人々を養う。イエスのこの姿は私たちに何かを思い出させないでしょうか。それは、私たちが今参加しているミサです。このミサ聖祭は、イエスが主導権を取って私たちを養ってくださる典礼です。聖書朗読という「ことば」と、聖体という「しるし」によって、イエスは二千年前と同じように私たちを養ってくださるのです。二千年前は五千人だったかも知れません。けれども今は、日曜日に集まる何百万何千万人という人を、ことばとしるしによって同時に養っておられるのです。

そう考えるとき、今週朗読された「五千人に食べ物を与える」奇跡の物語は、遠い昔の出来事として考えるのではなく、二千年前、イエスはしるしによって多くの人々を養った。そのイエスの働きが、ミサの中で繰り返され、二千年たった今でも続いていることに驚くでしょう。イエスが行われた奇跡は、奇跡の部分にばかり目を取られてしまうと、今目の前で繰り広げられている大きな業が見えなくなってしまいます。朗読された出来事は、今も典礼の中で続いているのだということを理解していただきたいと思います。

最後に、イエスの奇跡についてもう一度確認しておきましょう。奇跡そのものは、一回きりの大技ととらえるなら、集めた人を驚かせるにはこれ以上ないほどこうかがあるでしょう。けれども、一回きりの大技は、その時は人を集めても、もう二度と見ることができないのであれば興味もなくなってしまうことでしょう。

イエスはそのようなつもりで奇跡を行ったのではありません。イエスの業は、それはことばにせよしるしにせよ、その時限りのものではなくて、永遠に語り継がれ、その後どれだけ時間が経っても意味を失わないということです。

私たちは当時の出来事と今とがどのようにつながるのか、当時の出来事から今の私たちは何かを学び取り、生活に当てはめる必要があります。この努力がイエスの福音を今の時代に知らせる証しになるのです。
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‥次の説教は‥‥
主の変容
(マルコ9:2-10)
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