主日の福音06/07/09
年間第14主日(マルコ6:1-6)
疑いではなく信頼へ導かれるために

私は勝負事にはあまり強くないらしくて、勝ち負けがかかると力んでしまって思うような結果を出せません。あれか、これかを決めないといけないというようなときでもずいぶん弱気の虫が表に出てきて痛い目に遭うのです。

たとえばスポーツで、これまでに監督の仕事を何度か任せられることがありましたが、選手に作戦を授けた中で、作戦が見事に当たって勝利を収めたという経験がありません。「あー、監督の作戦が悪かったために迷惑かけたなあ」ということが多いのです。

一点を守る作戦に出るか、あと一点取りに行くか、これは監督の決断にかかっているわけですが、私がこうと決めたことと反対の方向に、しばしば事態は流れていきます。悔しいという気持ちもありますが、内心は、「自分はつくづく勝負事に弱いなあ」という思いで打ちのめされていることが多いのです。

典型的な例を経験しました。ドッヂボールの球技大会でのことです。教会対抗の球技大会でのことでしたが、私は昨年まである教会のチームの監督をしていましたが、転勤して次の教会のチームを見ることになりました。準決勝戦で以前いた教会のチームも勝ち残っていると聞き、去年のメンバーがほぼ残っているのを見て、おそらく自分のチームが一枚上だと感じ、以前までいたチームの選手たちに大見得を切って見せたのです。

「おー、準決勝まで残ってるじゃないか。まあ、勝ち上がったら、決勝戦で会おうな」。当然私は、自分とこのチームが勝ち上がるものだと信じてそう言ったのですが、足下をすくわれ決勝戦には勝ち残れませんでした。反対に、決勝にあがれるはずがないと思っていた去年まで面倒を見ていた教会のチームが、決勝に勝ち上がり、何と優勝してしまったのです。

この経験は私にとってかなりショックでした。去年面倒を見ていたときの選手がほぼレギュラーメンバーだったのですから、力はだいたい分かっているつもりでした。ところが私が監督を離れてみると、その選手たちは予想以上の力を発揮し、私を驚かせたわけです。この経験は後々まで尾を引き、私はそれ以後監督の仕事に自信を持てなくなりました。

もしかしたら偶然のいたずらだったかも知れません。けれども、私の中では、自分がこうと予想を立てたときに限って、反対の結果になるのだという痛い教訓になっています。消極的かも知れませんが、確率2分の1の場合は、常に予想と反対のほうを選んだほうが、良い結果に結びつくのかも知れません。

さて福音に入りますが、イエスが郷里にお帰りになったときのことが記されています。イエスはいつものように会堂に入り、安息日に人々に教え始めました。多くの人が集まっていて、イエスの話を聞きましたが、イエスの話に驚き、その驚きはつまずきへと変わっていったのでした。

私たちも、何かを見聞きして驚くということはあります。そしてその驚きはあるときは尊敬に変わり、ある時は疑いに変わっていきます。手品を目の前で見せられ、どれだけ近くで見ても見破れないときには、私たちはその人を尊敬することでしょう。けれども何かを勧誘されているときなど、どれだけ説明が整然と並べられていても、どこかで納得できないときはその人を疑うことになると思います。

驚きが尊敬に変わっていくか疑いに結びつくか。その分かれ目は私自身にあると思います。私の物差しで、目の前の出来事を測り、「わたしの経験上これはどうも怪しい」と思えば、どんなに理路整然と説明を並べられてもその人を疑ってかかることでしょう。反対に、自分の物差しでは測れない何かを感じたとき、人は相手に対して尊敬を持つのではないでしょうか。

今日の朗読でも、同じようなことが試されていると思います。イエスは安息日に会堂で教え、奇跡も行いました。イエスそのお方は、幼い頃に自分たちの目で見たことがあったかも知れません。また父母、そのほかの関係者についても知識があります。郷里の人が、すでに知っている部分を物差しにして判断するか、自分たちの物差しを超える何かをイエスに感じることができるか、まさに試されているのだと思います。

結局集まった人々は、自分の中にある知識を判断材料にしてイエスを測ってしまいます。私に限らず、人間は自分の知っている知識ですべてを測りきれるものではないというのに、集まった人々はイエスが誰であるかを率直にありのまま考えようとせず、知っている範囲のことで判断しようとしたのです。

イエスを、「自分たちと変わらない、ただの人間」と見るか「いや、わたしたちの理解できないものを持っている」と考えるか、2つに1つです。確率は2分の1でしょうから、意外と反対を選んだほうが良い結果につながるということも考えてよかったのではないでしょうか。

自分の中の知識を超える何かを感じ、そこに尊敬の気持ちを持ち、信じてみようと心に決める。この動きはイエスを信じるためにどうしても必要です。イエスは私たちの持っている知識で考えるならば、負け続けた一生涯と言ってもよいからです。それはイエスの最後の場面を振り返れば明らかです。

イエスは不正な裁判にかけられ、平手打ちや鞭で打たれ、十字架に張り付けにされました。人々に大切に扱われて最期を遂げたのではないのです。それでも何人かの人は見えることだけに囚われず、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)と証言しました。人間の知識でははかれない何かを読み取ったのです。

最後まで、イエスに付き従うこと。これが本来の信仰のあり方だとしたら、私たちはイエスのうちに人間の知識を超えるものを見つけなければなりません。身近なところでは、なぜ日曜日ごとにミサに行くのか。知識で説明しようとすれば、教会の六つの掟の中に書かれているからと説明することができますが、知識ではない何かを自分で見つけて日曜日に教会に行く。これが、最後までイエスに付き従う一つの姿になります。

ミサのことを言いましたが、ミサでなくても、なぜ朝夕の祈りを毎日唱えるのか、知識ではなくて私にとっての大切な意味を見つけること。それが、最後までイエスに従う具体的な態度だと思います。イエスに最後まで付き従うために、知識を超える何をよりどころとしているだろうか。自分自身の知識にとどまらない信仰者としての態度を今週もう一度考え直してみましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第15主日
(マルコ6:7-13)
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