主日の福音06/06/25
年間第12主日(マルコ4:35-41)
恐れにあっても神はそばにいてくださる

黙想会でしばらく伊王島を留守していました。月曜日に出て金曜日までわずか四日か五日のことでしたが、何だか皆さんの顔を見るのが久しぶりのような気がします。金曜日に戻ってきて夕方にミサをしたのですが、「浦島太郎になった気分です、月曜日に伊王島を出るときはみんな若かったのに、戻ってみたらみんなばあさんになってしまってますね」と言いましたら思いっきり笑われました。

今月の初めだったでしょうか。浦上教会で先輩神父様のお父さんの葬儀ミサが行われました。親を失うというのは大きな穴がぽっかり空いたような気持ちではないかと思います。私もその少し前、中田武次郎神父様が亡くなったときに同じような気持ちを持ちました。一つの屋根の下にいるわけではないけれども、生きていてくれる、元気でいてくれるというだけで親はありがたいのです。

誰にとっても、父母と呼べる人は一人なのですから、その父親母親と呼べる人がもうこの世にいないというのはショックであるはずです。今日はこの「大切な人がそばにいてくれる」ということについて福音から教えを受けたいと思います。

最初に話しましたが、黙想会が過ぎた週に行われました。説教師は新潟教区の司教に選ばれて二年目の菊池司教様でした。まだ48歳だそうで、司教様が48歳というのは大変お若いと思います。実際、日本の司教様の中で最年少の司教様だということでした。

お話しいただいた説教にここで触れる時間はありませんが、48歳の司教様を司教様たらしめているものはなんだろうかと、ふと思ったわけです。それは、40歳の中田神父を神父たらしめているものは何かということにもつながるわけですが、二つのことが考えられると思います。

一つは、「司教様だから司教様なのだ」ということです。もう少し分かりやすく言うと、自分で司教様になったのだから若くても司教様に変わりはないのだということです。もう一つは、「このかたが司教様であるのは、別の誰かのおかげ」という考えです。もっとはっきり言うと、「このかたが司教様であるのは、イエス・キリストのおかげ」という説明です。

二つの考え方のうちどちらがより正解に近いでしょうか。ご本人の立場になって考えるとどちらかはっきりすると思います。司教様方は、「自分で司教になったのだから、誰が何と言おうとも司教なのである」と考えているのか、「わたしが今日司教でいられるのは、イエス・キリストのおかげである」と考えるか、どちらなのでしょうか。

私は後者ではないかなと思います。今日私が司教であり続けるのは、ひとえにイエス・キリストのおかげであると、司教様みながお考えだと思います。福岡教区の松永司教様がお亡くなりになったときつくづく感じたことですが、全国の司教様がその場に参列しておられましたが、司教様にはやはり誰かがそばに付いているという雰囲気を持っています。ただ単に荘厳な雰囲気とか、威厳とかだけではなく、教区民を導く牧者としての雰囲気が司教様には備わっている。たとえその司教様が年若いとしても、司教としてその場にいるときの雰囲気は独特のものを持っているなと思いました。

威厳とか風格とかいったものは、もしかしたら若い司教様よりも年配の神父様のほうが重々しい雰囲気を持っているかも知れません。それでも、教区民の代表者としての雰囲気は、司教様に備わった独特のものだと思います。それは、教区民のまことの牧者であるイエス・キリストがそばにおられることから来る雰囲気なのではないでしょうか。

もしもですが、誰も知らない教区に行って私が司教の杖と帽子をかぶって登場したとしても、きっとそこに集まった人は吹き出すことでしょう。私がどんなに大まじめな顔をしていても、誰も認めてくれないと思います。それは、司教様というのは自分で努力してなれるものではなくて、イエス・キリストがそばにいてその人を司教の恵みで包んでおられるからです。

そこで福音に入りたいのですが、激しい突風を受けてイエスを乗せた舟は水浸しになるほどだったとあります。それなのに、イエスは艫の方で枕をして眠っておられたのです。ちょっと普通では考えにくいことですが、こうして出来事が書き残されたからには、相当強烈に弟子たちの記憶に残っていたのだと思います。弟子たちみなが恐れに包まれているのに、イエスは全く恐れを感じておられない。この差は一体何だったのでしょうか。

それは、ここまで話してきた例で触れたように、イエスのそばには誰かが付いておられて、どんな場面に置かれても絶対に恐れを感じない、それほど深い信頼に包まれていたということです。イエスにとってそれは言うまでもなく父なる神のことですが、イエスはいつも父なる神とともにおられたので、まわりがどんなに大騒ぎになろうとも全く動じる必要がなかったということです。

反対に、弟子たちは自分たちがイエスとともにいる、父なる神とともにいるということに全く気づいていませんでした。弟子たちが置かれているのは嵐のまっただ中、危険と恐怖の中に投げ込まれている、ただそれだけしか感じられなかったのです。たとえ危険と恐怖の中に投げ込まれているとしても、神がともにいてくださるという揺るぎない信頼があれば、危険と恐怖はその信頼を打ち破ることはできないはずです。弟子たちにはまだそこまでの信仰が育っていませんでした。

私たちはどうでしょうか。家庭の中で様々な問題が発生する、また職場の中で大きな問題にぶつかる。日々いろんな難問がのしかかってくるかも知れません。それでも私たちが、「わたしの信じる神は、どんな問題に直面してもわたしから離れることはない」という強い信念があれば、問題が山積していても失望してしまうことはないと思います。私にとっていちばん近くにいてくださるのは神であり、日々起こる難問は、私の信じる神を追いやったりはしないのです。そのことをあらためて確認することが、今週私たちに求められていることなのです。

船が沈みそうになる嵐の中でも、神は私のそばから離れることはありません。たとえ船が沈んだとしても、神は私のそばから離れない。そのことを信じることができるかどうか、私たちの信仰が試されていると思います。最後に神がそばにいてくれることを信じられなくなる人ではなく、最後になっても神は決して私から離れないと固く信じるための力を、今日のミサの中で願いましょう。浮き沈みの激しいこの世で本当に必要な救命浮き輪は神であるということを、あらためて確認しましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第13主日
(マルコ5:21-43)
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