主日の福音06/06/18
キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)
キリストは無限にご自分をお与えになる

「取りなさい。これは、わたしの体である」(14・22)。今日お祝いしている「キリストの聖体」の祭日をいちばんよく表している言葉です。イエスはご自分を神と人との和解のためのいけにえとして十字架の上に渡し、命の糧として分け与えてくださいました。今も私たちにご自身を食べ物として与え、「取りなさい。これは、わたしの体である」と仰る聖体の豊かさについて考えてみましょう。

過ぎた週は毎日何かしら予定があって、長崎と伊王島を行ったり来たりしていました。途中では400ccまでの普通自動二輪の検定試験を受けに行ったりもしました。土曜日になって説教の原稿を書かなければならなかったのですが、午前中は別の用事に時間を取られ、午後からは長崎さるく博覧会と連携して行われている「市民セミナリオ」の取材に出かけて、ほとんど説教の時間を取ることができませんでした。

この市民セミナリオはテレビコマーシャルも出していましたのでご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、長崎の高名な宗教家による講演会を聞き関連する音楽コンサートを組み合わせたものです。月1回、午後7時から始まって午後9時くらいまでの企画になっています。

この催しの取材のために昨日は午後4時ちょっと前の船に乗ったのですが、取材の道具は忘れずに持って行ったのに入場のチケットを忘れてしまい、仕方なく折り返し船で入場チケットを取りに行き、あらためて船に乗り込んで取材に出た次第です。チケットに気付いたのは船の中でしたが、車ではありませんので引き返すこともできず、ずいぶん時間を無駄にしてしまいました。

こんな調子で取材を終えて夜9時5分の船で帰っているわけですが、本来ならもうこれ以上何もしたくないところですが、説教が何もできていません。仕方なくそれから考え始めたのですがそうそう簡単には浮かんでこないのです。結局何か書けそうだなあと思って書き始めたのが夜中過ぎでした。

司祭は自分自身を信者のみなさんに分け与えることが務めですからその勤めに全力を尽くすわけですが、今週のように用事が重なると、自分自身を分け与えるのにも限界がやってきます。睡眠時間を削ってはみても、本当に良いものが用意できているかは怪しいものです。精一杯自分を与えるつもりですが、やはり限られた時間の中では、限界も感じます。

そのような一週間を過ごした後で、イエスが弟子たちに呼びかけた「取りなさい。これは、わたしの体である」という言葉は、特別な響きをもって私に届いたのです。中田神父は、ある程度まで自分を与えるとぐったりして限界を感じてしまったのですが、イエスはご自分にいっさいの限度を付けず、「取りなさい」と言うのです。

「取りなさい。これは、わたしの体である」イエスのこの言葉は、12人の弟子たちだけに言われたものでないことは明らかです。なぜかというと、この最後の晩さんの場面も含め福音書全体はイエスの復活の後に書かれています。そうすると、福音書を書いた時点では、「取りなさい。これは、わたしの体である」という言葉は、イエスを信じるすべての弟子たちが意識されているわけです。福音書が書き記された当時、イエスを信じる新たな弟子は最初の弟子たちの数倍、数十倍となっていたことでしょう。

さらに、この最後の晩さんの場面は、ミサの中にそのまま織り込まれました。そのことで、イエスはご自身をさらに多くの人にお与えになります。すなわちイエスを信じてミサに集まる私たちに、「取りなさい」と言うのです。

こうして考えてみると、イエスは際限なく自分を与え続ける方で、どれだけお与えになってもなくならないし、減ることもないお方です。それに比べ、弱い人間に過ぎない奉仕者たちは、自分自身を民に分け与えることは分かっていても、疲れてしまってもはや与えることができないという状況に陥りがちです。無限にご自分を与え続けるイエスに、生身の人間である奉仕者たちはどのようにして倣っていくことができるでしょうか。

限度を付けずに与え続けるイエスに倣うこと、それは今日の聖体の祭日を生きるということにつながっていきます。キリストの聖体の祭日に学び、聖体となって与え続ける姿を私たちが生きるために、何が必要でしょうか。

私は、違いを見つけたならばその違いを補う方法を考えることがいちばん大切だと思います。イエス・キリストは減ることもなくなることもない豊かさをお持ちですが人間は気をつけなければすり減ってしまうし、底をついてしまいます。そうならないうちに自分自身に必要なものを補いつつ奉仕に向かうこと。これが違いを補う道ではないでしょうか。

幸いに、今週は司祭の黙想会に当たっています。この黙想会を通して、自分自身に減ってきたものを補い、新たな奉仕に力を蓄えることができるでしょう。司祭、修道者に限らず、信徒のみなさんも典礼に奉仕したり教会運営に奉仕したりしています。疲れ果ててもう奉仕に尽きたくなくなるかもしれない。その前に必要なものを補うことです。

では、私たちが奉仕に心を向ける力をどこからくみ取るのでしょうか。この世の何かからでしょうか。そうではありません。私たちが奉仕の務めに必要な力は、イエスからしか得ることができないのです。こうしてミサにあずかり、「取りなさい。これはわたしの体である」と仰るイエスからしか、奉仕に必要な力を得ることはできないのです。この点、見誤ってはいけないことだと思います。

無限に与え続けるイエスは、今も聖体にとどまって同じ恵みをあふれるほど与えてくださいます。キリストの聖体の典礼を生きるために、私たちも奉仕の務めを通して自分を与えます。この力の源はミサの中でいただくご聖体です。このミサにあずかることです。私たちもキリストの聖体の典礼を生活の中で生きることで、イエスの与え続ける豊かさを学ぶ者となることができるように、ミサの中で願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第12主日
(マルコ4:35-41)
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