主日の福音06/06/11
三位一体の主日(マタイ28:16-20)
イエスはすべてを示そうと近寄って来られます
今日三位一体の主日を迎えています。父と子と聖霊が唯一の神でおられるという神秘について、与えられた朗読箇所から少し触れてみましょう。まず考える突破口として、だんだん暑くなってきましたから冷たさを感じる物を例に引いて考え始めたいと思います。
暑くなってきますと、誰でも冷たい物を欲しくなってきます。自宅の冷蔵庫の中にある冷たい物と言ったら、私はまず、氷を考えます。氷を作る製氷皿に水を均等に入れて冷凍室に置くと、数時間もすれば冷たい氷ができあがります。一つ口に含めば、どんなに暑い中でも一時の冷たさを楽しむことができるでしょう。
ところでこの氷ですが、もともとの水がどうして固まるのでしょうか。私も専門的なことは知りませんが、冷やされると水を形作っているものがぐっと近づいて、動かなくなるので氷になるという仕組みです。水の温度では水の分子はまだ動くことができますが、それが0度を下回ると動かなくなり、お互いがくっついたようになるわけです。
氷の大きな固まりを見たことがあるでしょうか。一つ10キロも20キロもあるような大きな固まり、この大きな氷はまるで一つの物のように見えます。けれどもよく考えると、この氷の固まりもたくさんの水の分子がゆっくり冷やされて互いに近づき、動かなくなったものなのです。砕けばバラバラになりますし、熱を帯びてくればもとの水として液体に戻ります。
今氷の話をしましたが、まるで一つの物のように見える氷は、水の分子同士がこれ以上近づけないところまで近づくことで現れる現象でした。互いに近づくということが、一つであるかのように結びつく原因となっています。この原理は、三位一体の神の一面を現しているのではないでしょうか。つまり、父と子と聖霊は、互いに近づき、これ以上近づけないほどに近くいるので、全く一つであるということです。
もちろん、たとえで引いた氷の話の延長線に、そのまま三位一体の神様の姿が当てはまるわけではありません。たとえから出発して三位一体の神様に少しでも触れようという試みですから、不完全な説明です。それでも、唯一の神を父と子と聖霊として示された神の、ある一面には触れるのではないでしょうか。それは、父と子と聖霊が互いにバラバラであったなら、決して唯一の神であるとは言えないのです。むしろ、思いも望みもすべてがこれ以上ないほど互いに近くあることで、神は唯一であるという結論になると思うのです。
父と子と聖霊が互いに近づいて、隙間なく近づくものはすべてくっつくのですから、父と子と聖霊はくっつくというよりも一つでおられるのです。氷は一時的にくっついても熱を帯びたり大きな力が加わったりすれば離れていくものですが、父と子と聖霊は決して離れません。ただくっついているのではなく、一つになっておられるので、別々となることがないのです。
福音ではこの「近づく」ということがどのように描かれているのでしょうか。復活したイエスが弟子たちに「近寄って来て言われた」(28・18)とあります。イエスはみずから近寄って来る方であることをはっきり示してくださいました。弟子たちはイエスに会ったとき、ひれ伏したと書かれています。王が民を支配する当時の生活の中では、王がひれ伏している民に近づくことは考えられないのです。
このような場面であれば、「近づいてよろしい」と命令し、民を王の近くに寄せるというのが一般的です。それなのに、弟子たちからひれ伏すほどの方であると理解されているイエスみずからが、弟子たちのもとに近寄ってくださったのです。この点についてはもう少し詳しく考えますが、ひとまず、イエスはみずから弟子たちに近づくことで、近づくことを望む神であることを示したといって良いでしょう。三位一体の神ご自身が、思いも望みも近づくことで完全に一つであるように、弟子たちにもご自身と思いや望みを一つにしてもらいたくて、近づいてこられるのです。
もう少しイエスが弟子たちに近寄って来られる場面を踏み込んで考えましょう。十一人の弟子たちはイエスが指示しておかれた山でイエスに会い、ひれ伏します。しかし、疑う者もいたとあります(28・17)。疑うというのは、「これは現実のことだろうか」とわが目を疑うということでしょう。このように完全には信じ切れていない弟子たちに、イエスは近寄って来られました。
弟子たちのほうからは不完全な状態を乗り越えることはできません。そこでイエスみずからが、近寄って来られ、ご自分を完全に受け入れるように、思いも望みも完全に自分と一つになってくれるように、近寄って来られるのです。
私たちにも弟子たちのためらいはよく分かります。しばしば経験することですが、何か少しでも躊躇するようなことがあれば、人はその場から手を引くものです。たとえば何かの甘い誘いがあったとして、何か少しでも怪しい点を見つけたら、こんなおいしい話は何か罠があるに違いないと敬遠するだろうと思います。私たちは少しでも疑いがあれば、その疑いを明らかにすることを考えるのです。怪しいけど引っかかってみようとは思わないのです。
弟子たちが、「これは現実だろうか」と思ったとすれば、二の足を踏んだというのはよく分かります。この溝を埋めることができるのは人間の側ではありません。大きな力で、人間がためらっているものを取り除く神の側の働きかけが必要なのです。イエスはそのために、近づいてくださいました。ためらいのある弟子たちに、全面的に身を委ねて思いも望みも一つになってもらうために、近寄ってくださるのです。父と子と聖霊の神が、思いも望みも近づいて全く一つであるように、弟子たちもその交わりに招くために、近づいてくださったのです。
私たちはどうでしょうか。生活の中に、どうしても乗り越えられない不安や疑いがないでしょうか。力を貸してあげたいけれども今ひとつ信頼できない。手を差し伸べてあげたいけれどもどうしても心の引っかかりがためらわせてしまう。そんなあなたの心を開くために、イエスは近寄って来られます。すべてを受け入れてあげたいのだけれども、心のどこかでその人を疑っている。そんな人間の弱さを覆ってくださるために、イエスは近寄って来られるのです。
家族が一つになる。兄弟姉妹が一つになる。教会共同体が一つになる。どうしても必要なことです。それなのに人間はどこか弱くて、一つになれない。その弱さを、近寄って来られるイエスが変えてくださいます。一つになるための大切な道を教えるために、イエスは近寄って来られる。今こそ私たちも、ためらっていた人に近寄りましょう。思いを一つにするためには、その人に近寄るしかありません。イエスが教えてくださった道を、三位一体の神秘につながっていく道を、私たちも生活の中で実践できるように、力を願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
キリストの聖体
(マルコ14:12-16,22-26)
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