主日の福音06/06/04
聖霊降臨の主日(ヨハネ20:19-23 ABC年共通)
私たちの聖霊体験を証ししよう
聖霊降臨の主日を迎えました。選ばれた朗読箇所は、復活したイエスが弟子たちに現れ、「あなたがたを遣わす」と仰り、「聖霊を受けなさい」と言って権限を授ける場面でした。ここにはっきりと、今年の聖霊降臨に向けたメッセージが込められていると思います。イエスによって派遣されていく弟子たちの中に、聖霊降臨が描かれているということです。
まず朗読箇所で取り上げた二つの点についてもう少し考えてみましょう。イエスは弟子たちを次のように言って派遣しています。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(20・21)。「父がわたしをお遣わしになったように」とは、父なる神が、人間へのあふれる愛に駆られてイエス・キリストをお遣わしになったということです。そのように、イエスは弟子たちをあふれる愛を込めて人々の中へと遣わします。
ここで「愛に駆られて」とか「あふれる愛を込めて」と言ったその愛は、実は聖霊のことではないでしょうか。人間の救いのために、父なる神はイエス・キリストを遣わし、弟子たちを遣わす。その姿には、神に背く人間をそれでも愛してくださる深い憐れみがそこにあると思います。イエスによって遣わされていく弟子たちの目の前には、それでも神に背き続ける人間の現実が待ち受けていることでしょう。
続けてイエスは、「聖霊を受けなさい」と言います。派遣によってこの世に来たイエスの中に、聖霊が満ちあふれています。さらに、人類の救いを完成させるほとんど唯一の方法として、イエスは人類にゆるしを与えます。そのように、イエスに聖霊のいぶきを受け、世に遣わされていく弟子たちにも、人々を心からゆるすことが求められています。背き続けるこの世に、聖霊を注がれて派遣されていることを証明するほとんど唯一の方法は、「ゆるす」ということでした。
「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(マルコ2・7)。かつてイエスの振る舞いを見て、律法学者たちはつぶやきました。罪をゆるすことができるのは確かに神お一人のほかにいません。その上でイエスは弟子たちに、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20・23)と言い切りました。つまり弟子たちには神おひとりのほかにはだれにもできない権限が委ねられたのです。これではっきりと、弟子たちには聖霊が注がれていることが分かります。
この一連の流れからすると、聖霊体験を確かめる方法が導き出されることになります。それは、イエスから遣わされているということと、イエスに委ねられている権限を持っているということです。この二つが、ある人やある集まりの中に確かめることができれば、その人、その集まりは聖霊の注ぎを受けているということができます。
では、具体的にどんな人、どんな集まりが聖霊降臨の恵みを受けた人、聖霊の注ぎを受けた集まりなのでしょうか。罪がゆるされるという点から考えると、司教と司教によって叙階の秘跡を受けた司祭は、聖霊体験をした人と言うことができるでしょう。司祭はどの時代にあっても信者の告白を聞き、罪をゆるす権限を授かっていましたから、教会の歴史が始まってからずっと、日本での迫害の時代にも、そして現代でも司祭はキリストによって遣わされ、聖霊降臨を経て人々の中に遣わされているということができます。
けれども罪のゆるしだけに限ってしまえば、聖霊が注がれて世に遣わされていく人の数はほんのわずかということになってしまいます。このミサに参加している私たちは今日の出来事とどのように関わっているのでしょうか。
そこで第一朗読の出来事を少し補って考えてみましょう。第一朗読は聖霊が炎の舌のような形で現れ、弟子たち一人ひとりの上にとどまって全く新しい言葉で語り出したという場面でした。私たちが社会に遣わされ、新しい言葉で語るとすれば、私たちもすでに聖霊降臨を体験していると言って良いと思います。私たちにこの二つの条件はそろっているでしょうか。
まず一つ目の、社会に遣わされていくということですが、ここにこうして集まった私たちは、ミサの終わりに次のような言葉を聞きます。「ミサ聖祭を終わります。行きましょう。主の平和のうちに」「行きましょう」とは、疑いもなく派遣の言葉です。つまり私たちは聖霊体験の条件の一つ、派遣されていくということをすでに繰り返し経験しているのです。
それではもう一つの、「新しい言葉を語る」ということはどうでしょうか。これも、いくつかの例を挙げれば、私たちがすでに新しい言葉を語っていることに気が付くと思います。たとえば、「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」。この短い祈りの言葉は、すでに新しい言葉です。洗礼の勉強をしたことのある人なら分かると思いますが、「アーメン」という言葉は「そうなりますように」という意味であると習ったと思います。
「父と子と聖霊のみ名によって何かを始めます。神様のために働きます。または、父と子と聖霊のみ名によって賛美いたします。そうなりますように」この短い言葉には、いろんな意味が込められているわけですが、そのどれもが、キリスト教を知らないすべての人にとって「新しい言葉」なのではないでしょうか。
また、私が口を酸っぱくして言っている「出かけた先で食事をするときに食前の祈り食後の祈りをしなさい」というのも、そのような習慣のないすべての人にとって全く新しい言葉だと思います。このように、私たちは多くの人の前で、新しい言葉を語ることができるのです。
こうして考えると、すべてのキリスト信者がすでに聖霊体験をしていると言って良いと思います。その勢いをかって最後にもう一つ考えて欲しいことがあります。私たちは新しい言葉を語ることができるのですから、ミサの派遣の言葉を受けて、大胆に世の中にあって証をすべきだと思います。それこそが、現代にあっても聖霊体験が繰り返され、引き継がれていることを証明する確かな方法になります。
ぜひ一人ひとりが、小さな祈りでもいいから、祈る場面を逃さずに唱えて欲しいのです。そうすれば、新しい言葉を聞いた人の中に、特別に親しみを持ってくれる人が現れ、また新しい神の家族に招き入れることができるかも知れません。聖霊降臨は、私たちが今の社会に証を立てなければ、また次の世代に確実に受け継がせる努力をしなければ、過去の出来事で終わってしまうのです。
私たちの聖霊体験を、日々の生活の中で社会に示していきましょう。遣わされている者として、また聖霊の照らしを受けた者として、ちょっとのことですが証を立てる。そうして聖霊の働きを活発にする決意を、今日のミサの中で新たにすることにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
三位一体の主日
(マタイ28:16-20)
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