主日の福音06/05/28
主の昇天(マルコ16:15-20)
昇天されたイエスの姿に私たちの模範がある

今日は主の昇天の祭日のミサです。主の昇天は単純に主が父なる神のもとへ昇られたということだけではない、もっと多くのことを考えさせる出来事です。主の昇天を通してどんな点をさらに学ぶことができるのか、思い巡らすことができるのか、いっしょに考えてみることにいたしましょう。

まず、天に昇られたということが意味することの一つは、人となって地上においでになり、救いの計画をすべて完成なさった神の子イエス・キリストが、この世を去る準備がすべて整った、ということです。神の子が人間の体を受け取り、この世にとどまって活動すべきことはすべて成し遂げたということになります。

主の昇天の中で取り上げている点は、私たち人間の置かれている事情とも比べながら考えてみるとよいと思います。まずはイエスが天に上げられたのはすべてを成し遂げたからだといいましたが、当てはめて人間がこの世から上げられるとき、あるいはこの世から取り去られるときは、いつでもすべてを成し遂げたところで取り去られているのでしょうか。

私は違うように思います。イエスが天に上げられていくときはすべてを成し遂げての凱旋ですが、私たち人間がこの世から取り去られるときには、多くの場合やり残したことがあり、また完成できずに終わって迷惑をかけたままになったりするものです。

イエスはすべてを成し遂げ、それも、すべてを完成させてから天に昇っていかれます。その姿は私たち人類に示された道しるべと言ってよいでしょう。誰も十分に真似ることはできませんが、それでも考えてみる価値があるのです。私はこの人生を終えてこの世から取り上げられるときに、すべてを成し遂げてから神に呼ばれていくことができるだろうか。もし不可能だとしたら、これからの人生を私はどのようにして最後を迎えるべきなのだろうか。考えなければならないということです。

次に、イエスが体も含めてすべて天に上げられたことを考えてみましょう。「天に上げられた」といっても、イエスの場合は誰かに上げてもらったという意味ではなくて、天に昇ったということのていねいなな言い方として考える必要があります。イエスは誰の手も必要となさいません。誰からも助けてもらわずに、ご自分で天に昇っていくのです。

さてイエスの体も含むすべてが天に上られたことについて、次のように考えることができるでしょう。イエスについて、すべてが父なる神に受け入れられた、すべてが父なる神の御心にかなったということです。すべて、御父に受け入れられるよいもの、御父の栄光、誉れと認められたので、天に上げられたということです。それも、完全なものとして受け入れられたのです。

この点も、私たち人間のおかれている事情と比べてみましょう。私たちは、努力すれば、神に受け入れられる者となるでしょうが、完全に受け入れられるということはないと思います。どんなに優れた人であっても、たとえばそれは、生きているときから聖人とたたえられるような人物であっても、神に完全に受け入れられる人間はいないと思います。神のあわれみによって、私たちは受け入れてもらえるに過ぎません。

そこでイエスが完全に父なる神に受け入れられたということをどのように理解すればよいのでしょうか。私たちにとって縁遠い話として受け止めるべきでしょうか。私は別の受け止め方をすべきだと思います。つまりイエスが完全に父なる神に受け入れられたのであれば、私たちは神に受け入れられるために、イエスの生き方に一つでも二つでも見習わなければならないということです。

もちろん、イエスの生き方を完全に身につけることはできないけれども、イエスの生き方は確かに神に受け入れられるのだから、一つでも二つでも自分の中に取り込むべきだということです。

そう考えると次のような答えにたどり着けるでしょう。私たちは与えられた人生を全うしなければならず、何かを投げ出したまま人生を終えてはいけないということ、そして、自分の人生を全うしたときに神に受け入れてもらえるように、イエスの生き方を私の生活の中に織り込む工夫をしなければならないということです。この二点を心がけて生きるということが、私たちなりに主の昇天を理解して生きるということにつながるのです。

主の昇天はイエスに与えられた栄光であると同時に、私たちに示されたメッセージでもあります。示された呼びかけ、招きをよく理解して、生活を整えていきましょう。神に受け入れられる人生を送るなら、私たちも天に引き上げてもらえるはずです。私の人生全体を神に受け入れられるものに変えていけるように、今日神の栄光に上げられたキリストに導きを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖霊降臨の主日
(ヨハネ20:19-23)
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