主日の福音06/05/21
復活節第6主日(ヨハネ15:9-17)
イエスは「わたしの愛にとどまりなさい」と招きます

5月17日、中田神父の大叔父さんになる中田武次郎神父様が91歳でなくなりました。33歳で戦争から帰り、その後7年間の神学校生活を経て40歳で司祭になった方です。神学生の弟さんがいましたが、その弟さんは戦地で命を落としていました。戦争が終われば神学校に復帰して司祭になってくれるものと母親は期待しておりましたが希望が絶たれ、それではと力を落とす母親を喜ばせるために神学校に入ったと聞きました。

戦争が終わって、本来なら出征前に勤めていた役場に戻れることになっていたのに、神学校に入り直すことを決心した話に、今日のイエスの招きがちょうど当てはまりました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15章13節)。

弟さんは友ではないにしても、信頼できる相手、互いに心を打ち明けることのできる相手ですから、イエスのたとえにそのまま当てはめて良いと思います。まさに武次郎神父様は、戦地で散っていった弟のために、普通の将来を捨てて弟が目指していたことのために命を捧げたのでした。

本来であれば、何もかもなくなった苦しい時代にまず必要なことは、生活していくための土台を作ることだったはずです。何かの仕事を見つけたり、お金になることを思いついたり、とにかく食べていけるように、まずは今を生き抜くことが、普通であれば第一に考えるべき事ではないでしょうか。

ですから戦争から帰ってきて神学校に入る決意をしたというのは、普通には考えつかないことだと思います。たとえ神学生であった弟が戦死したからといって、自分が神学校に行けば親はどうなるのか、働きがない自分への仕送りは誰に面倒を見てもらうのか、考えれば二の足を踏む、断念するだろうと思うのです。

けれども、武次郎神父様は自分が今ためらってしまえば、ただでさえ33歳から神学校に入って司祭になるまでに一体何年かかって何歳になるのだろうかと考えたとき、迷う暇はなかったのだと思います。それ以上に、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエスの言葉が、武次郎神父様を後押ししていたのではないかなと思いました。

たしかに武次郎神父様はイエスの言葉を生きたわけですが、それは見える部分だけのことではなかったと思います。見える部分というのは、弟さんが果たせなかったことを自分が代わりに達成するということですが、この出来事の中には、もっと深いイエスとのつながりがあったのではないでしょうか。

イエスは、「わたしの愛にとどまりなさい」と招きました。この招きに忠実に答えること、このイエスの招きに最大限協力する道が、神学校に行き、司祭になるという決断だったと思うのです。武次郎神父様はビルマ(現在のミャンマー)で終戦を迎えました。戦争は終わったけれども一年間は現地の捕虜収容所で強制労働をさせられたそうです。

どんな苦しい目にあったか分かりません。信仰を捨ててしまうような誘惑が起こったとしても不思議ではありません。それなのに、弟さんのきっかけがあったとは言え、司祭への道を歩む決意をしたのは、イエスの愛にとどまるとの思いがどんな困難をも乗り越えさせたという体験があったからではないでしょうか。

しかも武次郎神父様の神学校行きは、もう一つの働きを含んでいたと思うのです。それは、弟の思い、自分の夢を果たせなかった弟にも、イエスの愛にとどまることを叶えさせてあげたい、自分が神学校に行って目標にたどり着くことで、弟の分もイエスの愛にとどまることになると考えていたのではないでしょうか。

どんなに困難な時代であっても、だれかがより強くイエスの愛にとどまる者にならなければ、家族は本当の意味での幸せを得られない、誰かが友のために命を捨ててイエスが教えるまことの愛に生きる者とならなければと考え、神学校入りを決意したのではないでしょうか。本人の思いを十分に伝えることはとうていできませんが、混乱から立ち直ろうとする時代に神と人間がしっかりつながって生きるために、神と人との仲介者となるべく武次郎神父様は導かれたのだと思います。

もちろん、すべての人が神学校に入るわけではありません。そういうことを言いたいのではなくて、私が今生きている場所でイエスの愛にとどまって生きるんだという思いを忘れて欲しくないということです。

多くの人が掟を守り、友のために自分の身を削って、イエスの愛にとどまろうとしています。ですが、自分が今あるのはイエスが私たちのために命を投げ出してくださったおかげなのに、そのことを意識せず、まるで私の力で今日も明日も生きているかのように暮らす人がいる。決してそうであってはいけないのです。

せめて、自分からイエスとのつながりを断ち切るような生き方はして欲しくありません。「わたしの愛にとどまりなさい」という呼びかけを、適当に聞き流すのではなく、私は生活のどの部分で、イエスの愛にとどまって生きているのだろうか、時々ふり返りながら生活を整えていきましょう。

イエスは「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と仰います。イエスとの親しさに常にとどまっていることができるよう、ミサの中で願い求めることにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
主の昇天
(マルコ16:15-20)
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