主日の福音06/05/14
復活節第5主日(ヨハネ15:1-8)
枝を栄えさせる幹が何より大事です

母方の祖父母がまだ元気だったときのことです。末っ子にたった一人の妹、つまり祖父母にとっての女の子の孫が生まれたとき、祖父と一緒に杉の木をたくさん植えに行った記憶があります。確かにその時期だったという確信はありませんが、そうではなかったかなあと思っています。

あのころの習慣だったのでしょうか、木を植えて子や孫が成長したときに、植林した木は家財道具か何かに使われるのだと聞きました。実際にはどうなったのか分かりませんが、植林したあとも時々その場所に行って下草を払い、ある程度伸びてくれば枝打ちをしに行った覚えがあります。

当時の印象は、「林業の仕事には絶対に就かないぞ」ということしか感じませんでした。わざわざ遠い山の奥まで道具を担いで登って行って、汗だくになって下草を払い、高くなった杉の木によじ登って枝打ちをします。こんなに辛い仕事は、まっぴらごめんだと思ったのでした。

林業は植林してから何十年も先を思い描いて仕事をする気の遠くなるような作業の連続です。それでも、枝打ちの作業をしなければ木はまっすぐに伸びないし、節だらけの価値のない木になってしまいます。下草を払わなければ、木は決して大きくなりません。地道な作業ですが、決しておろそかにはできないことだったのです。当時子供だった私には理解できないことでした。

そうした並はずれた努力の結果育った木は、どれほど価値があることでしょう。今でこそ海外の輸入材に押されて、日本では木を育てても手間暇がかかりすぎて割に合わないと言われていますが、本当に材料を知っている人なら、国産の木材は海外のものに絶対に負けないと思っています。

今、林業を例に少し話しましたが、杉の木は多くの場合幹である木が大事なのであって、枝は木が立派になるまで絶えず払い落とされていくのです。ここには、イエスがたとえに話した、ぶどうの木と枝、イエスにつながっていることの大切さが私たちに身近な形で描かれているのではないでしょうか。ぶどうを栽培している人は私たちの中にほとんどいません。むしろ、木を植えた経験のある人のほうが、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

イエスが話したぶどうの木にも通じることですが、枝にどれだけ注意を向けても、幹である木を大切に育てなければ、実をつけることはできないし、植林した木であれば努力は無駄になってしまいます。幹である木が、どれほど大切であるかということをここでよくよく知る必要があります。幹に全神経を注ぐことが、結果の善し悪しを左右するということです。

イエスはぶどうの木で、幹が大切であることを言い聞かせるほかにも、幹である木とつながっていることがどれほど大切であるかも強調します。植林した木も、丸坊主ではいけないわけです。太陽の恩恵を受けるために、いちばん高いところには枝を残しています。残しておくべき枝は、幹としっかりつながって、葉を茂らせる枝でなければなりません。ぶどうの木も、どの枝を残すべきかよく見極めて剪定し、つながっている枝には豊かな実りを期待するのです。残すべき枝には、当然幹である木にしっかりつながっていることが期待されています。

今日朗読したたとえ話でイエスが伝えようとしていることは二つにまとめられるでしょう。一つは、ぶどうの木であるイエスが枝である私たちにとってどれほど大切であるかということ、もう一つは、この大切なイエスに私たちがつながっていなければならないということです。枝であるわたしが、よりどころとすべき幹であるイエスはどのような方であるか、もっともっと真剣に学ぶ必要があります。そして、そのイエスにいっときも離れずにつながっていることを心がけなければならないということです。

一つ目のイエスそのお方がどれほど大切であるかを考えるために、今日起こった一つの出来事を例に話したいと思います。今週高島教会に来るときに、二つのものを忘れずに持っていこうとずっと心に留めていました。一つは、司祭館に置いているコピー機のトナーという部品です。四月の初めから頭にあったことでしたが、今週こそはと思って持ってきました。

もう一つは、絵はがきです。今回高島教会も絵はがきの中に含めて10枚組でセットを組みました。高島教会の皆さんにいちばん早く届けようと思って、忘れずに持ってきたわけです。ただし、この二つを忘れないようにと頭を使った結果、この日私は携帯電話を忘れてきたのです。

ご存じないかも知れませんが、高島教会の司祭館は、昨年電話を取り外しました。一年間のうちに、何回かしか電話は使用されていなかったからです。しかも、中田神父のほうから電話をかけたことはこの2年で一度もありません。何回か電話がかかってきただけでしたので、こんな状態では電話は必要ありません、携帯電話があれば用事は済みますということで、話し合って電話は取り外したのです。

そういうわけですから、反対に携帯電話は絶対に持ち歩かなければなりません。いざというときの命綱ですし、中田神父が伊王島に連絡を取るときにもどうしても必要です。それなのに、それほど大事だというのに、忘れてきたのです。携帯電話でできるはずの用事が三時間ほどストップして、両手をもぎ取られているような不自由さを感じました。

現代にあっては、もしかしたら携帯電話がぶどうの木のような意味を持っているかも知れません。携帯電話がどれほど便利で重宝するか、ほとんどの人が痛いほど分かっています。電話そのものは大変便利ですが、それを肌身離さず持っていなければ全く用をなさないことも事実です。携帯電話と所有者とが離ればなれになっていては、意味がないのです。

こうして、現代の私たちにもぶどうの木であるイエスそのものがどれほど大切であるか、イエスそのお方について十分に知っておくことがまずは大切であることが分かってきます。イエスは私たちの救いのために死んで復活することを喜んで選んでくださった方です。イエスご自身のすばらしさは、たとえ私たちが知ろうと努力しなかったとしてもそのすばらしさを失いませんが、私たちがよく学び、イエスから決して離れないようにすることでもっと意味のあるものになるのです。

では二つ目の問題である、どのようにして幹であるイエスと枝である私たちはつながって暮らすことができるだろうかということです。さっきの携帯電話の話で言えば、伊王島を出発する前に一度でも携帯電話を使っていれば、高島に来るときに忘れたりはしなかったことでしょう。残念ながら、出発前の時間には携帯電話を使いませんでした。このちょっとの差で、高島に着いてからは何とも心許ない、誰からの連絡ももらえないしこちらからも連絡できないもどかしい時間を過ごしました。

この経験から話したいのですが、イエスとつながっているためには、時々、イエスの名を呼び求めればよいのではないでしょうか。これから食事をしようかというとき、大切な会議や仕事の前に、何気ないときでも、ふっと空を見上げたり自分をふり返ったりしたときにイエス・キリストを思い浮かべるなら、私たちは絶えずぶどうの木であるイエスにつながっていることができるのではないでしょうか。

何も教会に足を運んだときだけに制限する必要はないと思います。教会の中だけにイエスと私との絆を閉じこめる必要はありません。どうすればいいのかなあとふと思ったときに、「イエス様、どうすればいいですか」と思いを向ける、声をかけるのです。そんな場面を一日のうち何度か持つようにすれば、生活の中で常にイエスとつながっていられるのではないでしょうか。

イエスとつながって生活していく何より身近な方法は、祈りを唱えることです。5月は聖母月です。どうぞ教会で、家庭で、ロザリオの祈りを唱えてみてください。また朝晩の祈りを通して、イエスに心を上げる時間を確実に用意しましょう。

以前話したことがあると思いますが、指定暴力団の組織に足を入れていた人たちがイエスを堂々と証ししているという実例を話したことがあると思います。そこには彼らの妻たちの切実な祈りがあったとされています。たとえば次のような祈りでした。「イエス様、この人は今からこのコップについだ水を飲みます。この水を飲むときに、イエス様に背くような仕事から一日でも早く足を洗おうと思うようにしてください」。

または、「イエス様、わたしの夫は浮気はしていないといつも言い張っています。でも着ている物を洗濯していると絶対嘘をついています。今わたしが洗濯している物を着たらもう二度と浮気をしないように、イエス様あの人を導いてください」。どれくらいせっぱ詰まった祈りであったか、何となく伝わるのではないでしょうか。夫にコップ一杯の水を渡すとき、着替えの洗濯物を渡すとき、そのたびに妻が祈っていたという話は、イエスにいつもつながって生きるということを身近に考えさせるのではないでしょうか。

イエスとつながって生活を組み立てていく知恵を願い求めましょう。イエスはほかの誰とも比べることのできないほど私たちの生活に関わりが必要な方です。また私たちの必要に誰よりも答えてくれる方です。人生という一回限りのチャンスに、豊かなぶどうの実をつけるためにも、イエスとのつながりを絶やさないようにしたいものです。
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‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ15:9-17)
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