主日の福音06/05/07
主日(ヨハネ10:11-18)
聖体に養われる者は与え尽くす愛を深く学ぶ

ローマの殉教物語の中に、少年タルチジウスについての物語があります。当時ローマは皇帝による迫害が公然と行われていた時期でしたが、イエス・キリストを信じる人々は命がけで自分たちの信仰を守り通していました。

迫害は、たとえば教会の指導者を公衆の面前に引っ張り出して、野獣のえさにしたり、馬につないで真っ二つに引き裂いたりといった過酷なものでした。それでも教会の指導者、たとえばアンチオキアの司教聖イグナチオなどは、自分が野獣にかみ砕かれ、神のための小麦となることを切に望むとまで仰って殉教していったのでした。

そんな中で起こった殉教の物語ですが、ある共同体の中で礼拝に参加できない人々に御聖体を運んであげなければならなくなったのですが、緊迫した中で司祭に御聖体を運ばせるとあきらかに迫害者たちの目に留まり、ミサをささげる人がいなくなってしまうという問題が持ち上がりました。そうはいっても遠く離れた兄弟たちに御聖体を運んであげたい、司祭は頭を悩ませていたのでした。

そんなとき、少年タルチジウスがみずから志願して聖体を運び、離れている兄弟に届けたいと申し出ます。司祭は言いました。「タルチジウスよ、おまえの心からの願いはすばらしい。だがしかし、今は迫害の時代なのだ。少年であっても安全であるという保証はどこにもない。」

そこでタルチジウスは言いました。「司祭様、どうぞわたしにその務めをお任せください。わたしは少年ですが、まさかこんな少年に御聖体を運ばせているとは、迫害する者たちも考えはしないでしょう。もし見つかったとしても、わたしは命を捧げる覚悟ができております。」司祭は少年を祝福して、どうか無事に帰ってくることができるようにと祈ってから少年を送り出しました。

少年は服の内側に御聖体を大事にしまって、急いで御聖体を待っている兄弟たちのところへ向かいました。ところが、乱暴をはたらく少年グループと途中で出会ってしまったのです。この少年グループはさっそくタルチジウス少年に声をかけ、道をふさぎました。タルチジウス少年が何かを大事そうに胸に隠し持っていることに気づき、それを見せるようにしきりにけしかけます。それでもタルチジウスは関わりを持たないようにして去っていこうとしましたが、彼らの暴力を受け、その場で倒れ、命を落としてしまうのでした。

タルチジウス少年が乱暴を受けて命を落としたことが伝わり、キリスト信者たちは急いで彼を見つけに走りました。タルチジウスは命がけで、胸にしまった御聖体を守り通したのです。御聖体を守るために自分の命を投げ出した少年の勇気ある行動は、その後21世紀になっても語り継がれています。

本題に入りましょう。イエス様は良い羊飼いで、羊のために命を捨てると断言します。羊飼いにとって羊は愛すべき物です。愛するもののためではあっても命を捨てるにはよほどの事情がなければならないはずです。どのような理由があってのことなのでしょうか。

人が、愛するもののために命を捨てるには、次のような理由でなければ無理だろうと考えます。それは、「自分の愛するものの中に、命のすべてを見つけたから」「愛する対象(愛する相手)を、命を捧げても惜しくない」と思っているからではないでしょうか。羊飼いにとっての羊は、命を注いで育ててきたわけですから、それは命を捨てても悔いはないことでしょう。深く、命を注いだもののためなら、たとえ自分は命を失っても、注いだものの中に私が生き続けるからです。

先に話したタルチジウス少年のことを思い出しましょう。命を落とすまで御聖体を守ろうと思ったのは、自分にとって命そのものと同じくらい御聖体は大切なのだと信じ切っていたからです。自分の命を養い、支えているのは、ほかでもない、今この胸に大切に抱えている御聖体なのだと、固く信じていたからこそできた行動なのです。

御聖体は愛の形見と言われます。命の与え主、人間の造り主である神が、造られた人間のためにご自分の命を与えてくださった姿だからです。そこまで私たちを愛して、御聖体のうちにすべてを注いで下さったということを、タルチジウス少年はよく知っていたし、私たちも考えなければならないと思います。

そこから考えを広げて、御聖体に養われている家族、御聖体に養われている夫婦は互いに深く愛し合うきっかけが与えられています。御聖体をいただく私たちは、造り主である神の計り知れない愛の注ぎを受けているからです。神の愛が注がれている者同士ですから、身近なこの人を命を捨てるほどに愛していこう。そのように考えてみてはいかがでしょうか。

結婚している配偶者、また、親が子供を深く慈しむ、仕事の中で弱い立場の人をまごころ尽くして仕える。命を注ぎ、最後の一滴まで注ぐことは、愛する羊のために命を投げ出した羊飼いイエスを最高に学ぶ生き方だと思います。

そこで一つ忘れてはならないことがあります。自分が向き合っているその対象は、命を注ぎ尽くすほどの相手なのだろうか、見極めが必要かも知れません。本当に命を懸けて尽くす相手かどうかは、物差しを使って計ってみましょう。どんな物差しでしょうか。それは、相手の中にイエス様を見つけることができるかどうか、という物差しです。

趣味。自慢するかのように自分は命を懸けていると言い張る人もいるでしょう。けれども趣味の中に、イエス様を見つけて、命を注ぎ尽くすことなどできるのでしょうか。

財産、名誉、地位、健康。もしあなたが命を注いでいるものが、イエス様のかけらさえ見えないもの、相手であれば、もしかしたら命を捨てる覚悟は無駄になってしまうかも知れません。家庭には、心がければイエス様を見いだすことができます。夫婦のあいだには、イエス様が絆としてとどまって下さいます。

イエス様を見いだし、与え尽くす愛を学ぶ場を神様は一人ひとりにきっと用意しておられるはずです。身近なところでは、御聖体に養われている私たちの集いは、与え尽くす愛を学ぶ格好の場所です。それぞれが、与え尽くす愛を学ぶ場所に早くたどり着けるように、ミサの中で恵みを願っていくことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ15:1-8)
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