主日の福音06/04/23
復活節第2主日(ヨハネ20:19-31)
神のいつくしみは永遠に繰り返されます

復活節第二主日、「神のいつくしみの主日」を迎えました。この日に特別に名付けられている「神のいつくしみ」について、今週あらためて考えることにいたしましょう。

朗読は復活した主がトマスを除く弟子たちに最初に現れる場面と、トマスも一緒にいるときに再び現れるという出来事です。朗読をどのように読み解くと、神のいつくしみが私たちにも感じられるようになるでしょうか。

私は、「週の初めの日に起こったこと」として朗読をまとめると、良いものが与えられるのではないかと考えました。毎日の福音朗読を解説してくださっている雨宮神父様の解説からヒントを得ました。さっそく、出来事を「週の初めの日」という切り口でまとめてみましょう。

週の初めの日の夕方、弟子たちは恐れの中で一軒の家の中に集まり、鍵をかけ息を潜めていました。彼らはこれからどうしようかと集まって考えていたのではなく、誰にも気づかれないように、見つからないように隠れていたのです。そこへイエスがおいでになります。素朴な弟子たちは、主を見て素直に喜んだのでした。

出現なさったイエスは、真っ先に「あなたがたに平和があるように」と言います。そしてこの言葉を重ねて言いました。当然、同じ言葉を繰り返すのは、念を押したりとか、強調したりするためです。

それから弟子たちに使命が与えられます。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(20章22節)。

実はこのあとのトマスが一緒にいた時に出現された様子も、同じような書き方がされています。ある意味で出来事は繰り返され、強調されているわけです。

ここまでいろいろと並べてみました。思い切ってまとめると、週の初めの日、皆が集まったところへ復活したイエスがおいでになり、「あなたがたに平和があるように」とまず仰います。次いで弟子たちになすべき事が伝えられます。この一連の動きが、週の初めの日に起こったのです。

賢い皆さんはここで一つのことに気づくはずです。週の初めの日とは日曜日のことです。日曜日、イエスを信じる弟子たちが一堂に集まった場所に復活した主がおいでになり、「あなた方に平和があるように」と声をかけ、なすべき使命をお授けになる。これは何も弟子たちだけに関わることではなくて、私たちの今の暮らしそのものなのです。

日曜日、私たちはミサに集まってきます。イエスを信じている兄弟姉妹として集まっています。そしてミサの初め、司祭はイエスの代理として集まった皆さんに言います。「平和が皆さんとともに」。きっと皆さんは「また司祭とともに」と答えることでしょう。そしてこの「平和が皆さんとともに」というあいさつは、ミサの大切なポイントで繰り返され、強調されます。

さらに、イエスは日曜日ごとに選ばれている福音朗読の中から私たちになすべき事を知らせます。私たちはその呼びかけを心にとめて、ミサが終わるときに「行きましょう。主の平和のうちに」という派遣の言葉を受けてもとの生活に送り出されていくわけです。

そうです。賢い皆さんはここではっきり気が付きました。日曜日、ミサに集まってみことばと聖体の祭儀を執り行う私たちの中に、復活の時の出来事が繰り返されているのです。あとはそのことをどれくらい理解するかということになります。

はっきりと、当時の出来事の中に私たちが参加している日曜日のミサの内容を読みとりましょう。弟子たちが集まっていたところに復活した主が現れました。私たちが日曜日にこうして集まるとき、復活した主はここにとどまってくださいます。ということは、私たちが日曜日にこの礼拝の場所に集まること。これがすべての出来事の出発点ということになります。あなたが日曜日に集まらなければ、復活した主との出会いも始まらないのです。

次に、主は弟子たちに「平和が皆さんとともに」と挨拶します。当時の弟子たちは恐れに捉えられていました。恐れを取り除き、主がともにいてくださることが何よりも安心につながることを教え諭します。

私たちはどうでしょうか。私たちも恐れに捉えられているかも知れません。もう続けていけないとか、もう我慢できないとか、いろんな限界にぶつかっているかも知れません。それなのに、今日こうして皆さんと一緒に集まることができました。

さまざまな悩みをいったん横に置いて、荷物を両手から離して、賛美のために集まりました。これまで苦労して抱えていた生活の重荷をささげものとして主は受け取ってくださり、代わりに平和をお与えになります。

私たちの恐れを受け止めて、代わりに平和で満たしてくださる。復活したイエスは、今もいつも、神のいつくしみを示し続けておられるのです。それは弟子たちにも、今の私たちにもです。

平和を告げた後に続けて主はなすべき事を示します。今日の朗読では、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と仰って罪の赦しに弟子たちを向かわせ、トマスには「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」というより個人的な呼びかけもなさいました。私たちも、日曜日ごとの福音朗読から今週なすべき事が示されるのです。

自分自身の生活をふり返るとき、今週の朗読と説教とを総合すると、私は今週こんな事に目を向けるべきだ。はじめは難しいかも知れませんが、今週私に向けられた呼びかけは何だろうと、毎週毎週考え続けるならば、しだいにその答えをいただけるようになります。

こうして考えると、週の初めにミサに参加するたびに、当時の弟子たちが復活した主との間で経験したことは、今も繰り返されているのだと分かります。私たちも復活した主と出会い、「平和が皆さんとともに」という言葉を聞き、なすべき事が示されて生活の中に送り出されています。神のいつくしみは、復活したイエスを通して永遠に続くのです。

今参加しているミサ、今目の前で行われていることを私たちがよく理解すれば、ミサはイエスが復活された当時を再現するものだと、「見ないで信じる」ことができるのではないでしょうか。そこまで出来事を読み解くことができたなら、その時こそ私たちは「幸いな人」と呼ぶにふさわしいのです。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第3主日
(ルカ24:35-48)
‥‥‥†‥‥‥‥