主日の福音06/04/16
復活の主日(ヨハネ20:1-9)
行動を起こすことで復活の主に触れます

あらためてご復活おめでとうございます。昨晩の徹夜祭からそれほど時間も経っていませんが、今日の朗読箇所に選ばれているヨハネ福音書から、昨日とは違った点を取り上げてみましょう。今日の朗読では、実際には復活した主と出会ってはいませんが、弟子の一人が最後にはイエスの復活を信じました。復活を理解するようになったきっかけを、今日は考えてみましょう。

弟子たちは初め行動を起こそうとしませんでした。彼らはイエスをお納めした墓の場所を知っています。どのような納め方をしたかも知っていたでしょう。これ以上新しいことは何も起こりそうにないと思っていたのに、マグダラのマリアの報告によると、実際には驚くべきことが起こっていました。墓を閉じた石が取りのけられ、体を巻いていたはずの亜麻布が置いてあり、頭を包んでいたおおいも離れた場所に見つけたのです。考えてもいなかったことが、実際には起こったのです。

これら一連の体験にあずかることができたのはなぜでしょうか?それは、「墓を訪ねたこと」ここから出発するのです。何も起こらない、墓に行っても仕方ないと思っていたなら、誰も墓を訪ねなかったかも知れません。けれどもマグダラのマリアは、とにかく墓へ行ったのです。何も変わらないと半分諦めていたかも知れません。けれども、とにかく行動を起こそう。彼女はそう心に決めたわけです。

神さまの計画は動き始めていました。イエスはマグダラのマリアが墓に着いたとき、すでに復活しておられたのです。マグダラのマリアは「墓から取り去られた」(20章2節参照)と勘違いをしたのですが、イエスの復活という神のご計画はすでに動き始めていたのです。

もしも、誰も墓に行く人がいなかったら、復活の出来事を知ることもなく、イエスに従った人たちは散らされて歴史は変わっていたかも知れません。それが、勇気ある女性の行動、結果を先に決めてしまうのではなく、とにかく動いてみようという思いによって、人々を復活の出来事に向かわせました。ヨハネ福音書では空の墓だけが伝えられていますが、これは出来事の始まりであり、神さまの計画が動き出したというその出来事の最初に過ぎないのです。

誰かが墓に行かなければ、墓での出来事を確かめることはできません。墓で何かが起こったのだと感じ取るためには、「どうせ出かけて行っても、墓の石は置かれたままだし、何も変わったことはない」と先に決めてしまってはいけないのです。勇気を出して、動いてみること。そうすれば、変わらないものが変わる。そういう大きな変化が起こるのです。

最近中田神父は旧約聖書と新約聖書を全部読み上げるためにはどれくらい時間がかかるのだろうかとふと思って、計算するのではなくて実際に読んでみればいいじゃないかと、動くことにしました。ただでさえいろいろ抱えている身ですが、司祭が司祭生活の中で聖書を全部読んだことがないのでは話になりません。

忙しくなくなったら読みましょうといつまでも動かなければ、その日はいつになってもやって来ないでしょう。ちなみに、1月26日から始めた聖書の通読は、今現在新約聖書は27書すべて、旧約聖書39書読み上げて、残りは旧約聖書続編の15書というところまで来ています。動かなければ、何も始まりませんが、いったん心に決めて動き始めると、変わらないと思っていたことも変わります。

いままで動こうとしなかった人が動き出したときに復活したキリストに出会うことになりました。今年、みなさんが信仰の面で何か動き出したなら、きっと復活したキリストに出会い、信者であることはすばらしいのだとあらためて気付くことができるでしょう。

一つだけ、ヒントをあげましょう。みなさんの誕生日に、神さまがいちばん喜ぶことをする。そう考えてみてください。私たちはみな、神さまに誕生日をいただきました。神さまが私に命を預けてくださったのですから、一年に一度のこの大切な日に、神さまがいちばん喜びそうなことを実行してみるのです。

動き出せば、何かが変わる。先に何も変わらないと決めてしまっては何も起こりません。とにかく動き出すことで、マグダラのマリアや弟子たちのように復活の主に私たちは出会うことができるのです。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
神のいつくしみの主日
(ヨハネ20:19-31)
‥‥‥†‥‥‥‥