主日の福音06/04/14
聖金曜日(ヨハネ18:1-19:42)
死ななければならないイエスの思いに触れよう

今日聖金曜日は、世界中でミサが行われない日です。ミサが成り立つためには、パンとぶどう酒がイエス・キリストの御体と御血に変化しなければなりません。「みな、これを取って食べなさい」「みな、これを受けて飲みなさい」この聖変化の言葉を唱える部分がなければ、ミサは成り立ちません。

今日、ここで行われている典礼の儀式の中で、聖変化の言葉は唱えません。つまり、今日の典礼ではミサは行われないのです。もう少し詳しく言うと、金曜日から、土曜日の日没までは、ミサを行ってはいけないことになっています。

このような決まりがあるのはなぜでしょうか。それは、ミサを行わないことで、意識してイエス・キリストのご死去をしのぶためです。キリストが亡くなられ、全世界が喪に服しているのです。世界中で、毎日途切れることなくミサのいけにえがささげられていますが、今日のこの一日だけは、すべての動きが止まるのです。

ここまでいっさいの動きを止めて今日ここに集まっているのですから、私たちはイエスがなぜこうまでして亡くならなければならなかったのかをしっかり考えることにしましょう。人間はそれぞれの寿命を全うすれば必ず死んでいきます。ですがイエスの死は、寿命を全うしたのではなく、死ななければならなかったので死んだのです。

では、なぜ死ななければならなかったのでしょうか。それは、すべての人に救いを届けるためでした。今年、一つの例を考えてみましょう。私たちは誰もが死を迎えますが、なかにはなぜこんなにも早く死ななければならなかったのか、なぜ見ず知らずの人が起こした事件の犠牲者にならなければならないのか、いろんな理由で出来事を受け入れられない場合があります。いろんな受け入れられない人間の最後を、神が受け止めて、報いてくださるために、イエスは今日こうして亡くなったのではないでしょうか。

私たちはみながみな、十分納得できる形で最後を迎えるわけではありません。この世に未練があったり、悔しさが残っていたり、無念さがあったりする人もいます。こんな方々は後の世に救ってくださる方がいなければ、この人生は何だったのだろうかと悲嘆に暮れることでしょう。いろんな事情を抱えてこの世を去る人は、イエス・キリストが自分の救いのために死んでくださらなかったら、この人生報われないということになってしまいます。

イエスは、当時の宗教指導者のねたみと憎しみのために死に追いやられました。けれどもイエスの死は、当時の人々のためだけではありませんでした。憎しみに駆られて人の命を奪ってしまう人はどの時代にもいます。その犠牲になる人も残念ですが出てきます。イエスの時代だけではない、すべての不条理な死を救ってあげるために、イエスはご自分の命を差し出されたのです。イエスの命によって、すべての人の死は報われることになったのです。

イエスは、不条理な死にも報いがあることを身をもって示してくださいました。もちろん今年は一つの例に当てはめて考えましたが、すべての人の最期に当てはまるわけではありません。私たちみなが考えるべきことは、イエスの死は復活への希望であるということです。みなが抱えている不安を、イエスはご自分の死と復活を通して希望に変えてくださるのです。

私たちはぼんやりとではあっても、死んだときにどうなるのだろうかという不安を抱えています。イエスはご自分の死と復活を通して、この不安を取り除いてくださいます。イエスに信頼を寄せる人は、イエスと同じように復活にあずかることになるのです。私たちはその最初の出来事、イエスが亡くなられたことを、今はただ静かに見守っています。

今日、イエスがお亡くなりになったことを見届けました。私たちは亡くなられたイエスが必ず復活すると信じています。この信仰を決して手放さないようにしましょう。イエスが死んで復活するなら、私はたとえ死んでも恐れることはありません。この固い信仰を今日の典礼のなかで新たにし、静かに復活までのひとときを待つことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
復活徹夜祭
(マルコ16:1-7)
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