主日の福音06/04/09
受難の主日(マルコ15:1-39)
天に属するものを与える方が神です
今日私たちは、主のエルサレム入りをミサの始めに取り入れました。人々の期待の中でエルサレムに入ったのに、福音朗読の中ではイエスは不正な裁判にかけられ、十字架の上で息を引き取りました。
今日のミサの典礼は、いわば今週一週間をまとめて体験するための日曜日です。というのは、馬込教会で午後7時に行われる聖木曜日・聖金曜日の典礼に、すべての人が参加するのは難しいからです。
すべての人が参加してほしいですが、日曜日ではないために参加できない人も出て来ます。そこで、今日の日曜日に前もって、この一週間のまとめとなるエルサレム入りから十字架上での最後の場面までを典礼に盛り込んでいるのです。
この一連の出来事の中から、私たちもぜひ百人隊長が今日の福音朗読の最後に残した「本当に、この人は神の子だった」という言葉を確認して新たな一週間に入っていくことにしましょう。私たちからは、今日の出来事のどこを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言えるのでしょうか。
今日の朗読からはっきり分かることが一つあります。この最後の最後の場面に、イエスは自分のために何の奇跡も行わなかったということです。何らこれといったこともお話になりませんし、二度までも「十字架から降りてこい」と言われながらも、ひとことも反論しなかったのです。
もしかすると、これが今週の朗読からイエス・キリストを知るための大切な鍵なのかも知れません。逆説的なのですが、イエスがこの世のものを何もお与えにならなかったことでご自分がこの世に属している者ではないこと、天に属している者であり、神の子であることを証明しているのではないでしょうか。
人々はしきりにイエスからこの世に属するものを引き出そうとしています。「お前がユダヤ人の王なのか。」イエスは何もお答えになりませんでした。「十字架から降りて自分を救ってみろ。」イエスは決して降りようとなさいませんでした。
何ら、この世に属している人間の要求に応えませんでした。確かにこの事実からイエスはこの世に属していないと言えるかも知れません。ですがそれだけではイエスが天に属しているということの証明にはなりません。
イエスは天に属する者として天からのものをお与えになるのでしょうか。天からのものを与えてくださる方こそ、天に属する者です。私たちはイエスの何を見て、今日百人隊長と一緒に「本当に、この人は神の子だった。」と信仰告白することができるでしょうか。
これまでイエスがこの世に属するものを何一つ与えてくれなかったことを確かめましたが、反対に、一つだけ与えてくださったこともはっきりしています。イエスは、ご自分の命を私たちに与えてくださったということです。大声を出して息を引き取られた。その時イエスは、ご自分の命を私たちに与えてくださったのです。
たった一つ与えてくださったもの。イエスご自身の命はどこから来たものでしょうか。それは、天からの命です。神が人間に与えてくださった、天に属する命です。神がご自分の独り子を通して、神の命を与えてくださいました。命を与えるためには死ななければなりません。そのため神は人となり、十字架にかかって、神の命を人類に与えてくださったのです。
今日私たちは、この世に属するものを何も与えず、ただ一つご自分の命をお与えくださったイエスを確かめて帰りましょう。神の命を与えることで神であることを証明してくださった十字架上のイエス・キリストを心に抱いて、復活へと過ぎ越していく今週一週間を歩き始めることにしましょう。
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‥次の説教は‥‥
聖木曜日
(ヨハネ13:1-15)
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