主日の福音06/04/02
四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)
この世に死ぬことがなければ、永遠の命もありません
複雑に絡み合っているものを解きほぐすことは、なかなか根気のいるものです。中田神父のふるさとで、糸が絡んでどうにもならなくなった状態を「もとぐれる」と言っていましたが、たとえば荷造り紐がもとぐれると、どちらから引っ張っても出てこない状態になってしまいます。辛抱の足りない人はあきらめて捨ててしまうか、適当にハサミで切ってつないで使うかも知れません。
ところが、どうしても辛抱して絡んだ糸をほどいて使わないといけないこともあります。たとえばそれは釣りをしているときです。リールの糸が絡まったり、手釣りの糸が絡んだりしたときに、ほかに代わるものがなければあきらめるわけにはいきません。また、我慢が足りずに糸を切ってつないでしまうと、釣りの経験者はご存知の通り、その場はしのぐことができるかも知れませんが、あとではいつもそこで絡んでしまうことになって結局使い物にならないのです。
釣りでは、絡んだ糸はどんなに気の短い人でも辛抱して糸のもつれを解くのが遠回りのようで実はいちばん確実な道です。釣りの話をしていたらだんだん釣りに行きたくなりました。そろそろ天気も良くなってくるので、魚も待っているかも知れませんね。
さて、辛抱強く糸のもつれを解きほぐすということですが、この作業を何度か経験したことのある人は分かると思いますが、糸のもつれは一度にたくさん解くことはできません。気の遠くなるような作業ですが、一つずつ進めていくものです。そして、最初のうちの苦労は、そのあとのもつれを解くときにすべて役に立って、次々と前に進んでいくことができます。
実はこのもつれた糸を解く作業は、今週の朗読でイエスが語った次の言葉を考えるのに大変役に立つと思います。イエスの次の言葉です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(12章24-25節)。
まずこのイエスの言葉を解きほぐしてみましょう。きっと、この努力がその先の神秘を解き明かしてくれます。さらにそのまた次の神秘へと私たちを準備してくれるでしょう。イエスが言われた「一粒の麦」のたとえでは、麦の一粒が死ななければ実りはやって来ないことをはっきり教えています。麦の粒は、そのままでも生きている種です。ということは、そのままであれば今の目の前の命に生きていることになります。
しかし、実りを得るためには死ななければなりません。今の命のままではいけないのです。今の命に死んで、次の命に移り変わっていく必要があるのです。もし今の命に執着すれば、何も新しいものは生まれません。けれどもその麦の一粒が死んで、次の世界の命に目を向ければすばらしい実りを得るのです。
私たちは、出来事そのものはいつでも見ることができます。野菜の種を畑にまいた経験は誰にでもあることでしょう。中田神父にだって、野菜ではありませんがアサガオの種をまいて、そこから蔓が伸び、またきれいなアサガオを楽しむことができることくらいは知っています。アサガオの種が、目の前の命を投げ出して次の世界の命にかけてみたとき、初めてすばらしい体験ができるわけです。
一粒の麦についてここまで十分に考えました。そしてこのたとえ話の豊かさが解き明かされました。この努力はイエスが示すその先の出来事につながっていきます。一粒の麦とは、単に穀物のことだけに終わりません。イエスはご自身を、一粒の麦としてたとえておられるのです。イエスはご自分がこの世の命に死ななければならないことを、一粒の麦にたとえて話されたのです。
イエスはご自分の心の動きを素直に表してくださいました。「今、わたしは心騒ぐ」(27節)。問題は穀物の種から確かにイエスご自身に移っています。ご自身の置かれている困難な場面を解きほぐす必要があります。解きほぐさずに、「わたしをこの時から救ってください」と言いたくなります。
けれどもイエスはご自分でこの複雑に絡み合ったもつれを解いて、今この世の命に死んで、天の国の命、復活の命によって多くの実を結ぶ決意をなさいました。そして天から声が聞こえます。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」(28節)。イエスはご自分の運命に関わる複雑な糸のもつれを解いて、この世の執着を捨てて後の世の命に自分を委ねるという答えを示してくださったのです。
イエスが解いてくださった糸のもつれは、私たちが抱えている問題の解決に導いてくださいます。一粒の麦の謎を解き、イエスがなぜ死ななければならないかを考えたことで、私たち自身の問題にも絡んだ糸を解きほぐす力が与えられました。私たちの頭から離れない問題、複雑に絡んでいて解けないと思っている問題は何でしょうか。
おそらくそれは、「信仰を続けても何になるのか」ということではないでしょうか。ある人は教会に足を運ぶことをすっかり放棄してしまいました。教会では会いませんが、ターミナルではしょっちゅう会うという人がいるかも知れません。ちなみに中田神父は、教会に来るべき人で明らかに教会をお休みしている人とターミナルで会うと、こちらのほうがいたたまれなく、胸が痛くなります。はたして、相手の人に届いているのでしょうか。
それはいったん横に置いて、「信仰しても何になるのか」ということに答えを見つけ出しましょう。私たちは自分で決めれば、食べて体を休める時間以外はすべて自分のために使うことができると思います。深夜まで時間を作ることもできるかも知れません。ある人にとっては、それがいちばん充実した生活だと思っていることでしょう。
ところが、私の過ごしている時間に本当の意味と価値を与えるのは私でしょうか?私が有意義に過ごしさえすれば、手に入れた時間の価値を最高に高めることができるのでしょうか。私は違うと思います。私に与えられた時間に意味と価値を与えるのは、私に生きる時間を与えてくださった神なのです。
そして、神が私に与えてくださった時間を価値あるものにする具体的な方法は、言うまでもなく神に感謝と賛美をささげることではないでしょうか。自分のためでなく、神さまのために使うこの礼拝の時間が、私の活動時間に意味と価値を与えます。それはつまり、私が与えられている時間のうち、いくらかの時間は死ななければならないということです。自分のためにいっさい使わず、この礼拝のために時間を放棄する。そうして初めて、新しい時間に本当の価値を与えるのです。
私は、与えられた時間のうち、いくらかの時間あたかも死んだかのように、神さまのために時間を放棄しているでしょうか。朝夕の祈りと、ミサの時間は、ある意味で私が今日神さまのために死ぬ時間です。そうして神さまのために今をささげる時、まことの命を私たちは確実に手に入れることになるのです。
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‥次の説教は‥‥
受難の主日
(マルコ15:1-39)
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