主日の福音06/03/26
四旬節第4主日(ヨハネ3:14-20)
イエスは出会えない者までも引き寄せる

どこまで行っても出会うことのないものがあります。たとえば右と左。どこまで右に行っても左と出会うことはありません。または東と西、北と南。東へ東へどこまで行っても西と出会うことはありません。Aという地点は、地球を一周すれば戻ってきますが、東と西はあくまでも出会うことはありません。

そのたとえを頭に置いて今日の朗読をたどっていくと、決して出会うことのないものが取り上げられていることに気付きます。それは、「光」と「闇」です。次の箇所です。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」(3章19節)。
光を求めれば求めるほど、闇は遠くなり、闇を追い続ける人間にとっては光は遠のいていくのです。物には裏と表のあるものがありますが、光の裏は決して闇ではありません。正反対ではありますが、光と闇に接点はないのです。

今日の朗読で示されている「光」、この光とはいったい誰のことでしょうか。「光が世に来た」とあります。「光」の意味を間違いなく理解するために、今日の朗読は直前で次のように言っています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(17節)。するとこの「光」とは、御子イエス・キリストであることは明らかです。

この光であるイエス・キリストに対して、人間はどちらかの態度を取り始めます。「光の方に来る」のか「光の方に来ない」かです。当然、選ぶべき態度は「光の方に来る」態度、朗読の中から取り上げると「真理を行う」ことが私たちの取るべき態度になります。

繰り返しになりますが、「光の方に来ない」態度と「光の方に来る」態度とは決して出会うことはありません。イエスから遠ざかる態度を繰り返しているうちにいつの間にかイエスに近づいていたなどということはないのです。私たちがイエスに向かう態度をとり続けない限り、イエスのもとに集うことはできないのです。

具体的に考えてみましょう。教会と関わりたくないと思い、その通りに実行することは「光の方に来ない」態度です。10年間、「光の方に来ない」態度をとり続けた人がいるとしましょう。その人は、何もしなくても11年目には態度を改めて「光の方に来る」ようになるのでしょうか。

私は、その人が11年目に自然と向きを変えるとはとても思えません。そうではなくて、その本人か、周りの働きかけによって意識して光の方に来るのでなければ、教会との交わりを拒み続けているだけでは何も変わらないと思います。

そこまでは、私たちみなが頭で分かっていることです。けれども、分かっていたとしても切り替えることができない弱さもあります。周りの人も働きかけた、本人もいくら何でもそろそろ教会との関係を取り戻さなければと考えるようになった。でもそれでも、動けない、足が向かない、出かけようとしたけれども途中で帰ってしまった。人間はそれほど強くありませんから、いろんなことがあり得ると思います。

私たちを照らし導く光であるイエスは、何度も立ち直りそうになって挫折する姿を見て諦めてしまう方でしょうか。私はそうは思いません。神はある意味で諦めの悪いお方だと思います。人間であればさじを投げるような状況であっても、神は決して諦めない。そのことを表す明らかなしるしが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という部分に示されています。

その場を逃げ出したり、どうなっても構わないとまで投げやりになったりする人間を神は決して諦めず、独り子をお与えになるほど愛されたのです。最後の手段までも、私たち人間を「光の方に来る」ためにお使いになったのです。

イエスは、ご自分が父である神から遣わされた者であることをはっきり意識していました(17節参照)。この世界の人間をどこまでも愛して救いに導くためにご自身が遣わされたということを自覚していました。イエスはご自分の使命をある程度実行して終わったりはしません。ご自分を世に与えるのですが、ある程度与えるのではなくて、十字架の上で、いのちもすべてお与えになったのです。光の方に来るのが正しい道だと分かっていても逃げてしまう弱い人間を光であるご自分と出会わせるために、みずからいのちを投げ出すのです。そのままでは光を憎み、避けてしまう人間をもご自分と向き合うことができるように、みずから、いのちを与え尽くすのです。

今週は四旬節の第4週目です。受難の主日、2週間後の日曜日には、十字架の場面の朗読を読み、ここまで出会いの場を準備してくださった神の深い愛に触れます。出会いの場を命をかけて準備してくださるその時が近づいています。私たちも、神との出会いの場に足を運んでくれない人たちに、何とかその機会を用意してあげましょう。

例を挙げておきます。聖木曜日、イエスが最後の晩さんの席で弟子たちの足を洗ったように、私たちもミサの途中で男性12人の足を洗います。せっかくの機会ですから、足を洗いあって、もう一度出直す機会を作ってあげましょう。また、次の日聖金曜日には、等身大の十字架を担ぎながら十字架の道行きをします。そこでも、今まで背負ってきたものの代わりに、キリストのしるしである十字架を背負ってもらうことで、新しい出発を作ってあげましょう。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第5主日
(ヨハネ12:20-33)
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