主日の福音06/03/19
四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)
積み上げた物をすべて運び去りましょう
先週は40歳になりましたという話から入りましたが、今週私は司祭叙階の記念日を迎えました。3月17日です。18日昨日で、15年目に入りました。皆さんに当てはめて、結婚15年目というのはどういう感じでしょうか。当てはまる方々に感想を聞かせてもらいたいものです。
ちなみに私は、15年目に入ってみると、10年目からの5年間は横には広がったけれども前には進まなかったのではないかという反省ばかりが目に付きます。ついこの前、手配していた125ccのバイクが手に入ったのですが、バイクの重量が104キロ、自分の体重が78キロですから、バイクも私がまたがっていては相当に重たかろうなあと同情いたします。
船もバイクも一緒ですが、上が重くなればバランスは悪くなります。方向を変えるときに大きく重心が傾いて、度を超せば船であれば転覆、バイクであれば転倒ということになります。このような危険を少なくするために必要なことはただ一つ、積み荷を軽くする、乗っている人間の体重を減らすということです。それは極端な話、積み荷が全くなければ、仕事にはなりませんが船はいちばん安全だし、誰も乗っていなければバイクにも何も起こらないということになるでしょう。
そこで叙階15年目に入った私の願いは、積み荷をできるだけ軽くする。この一点に的を絞って取り組んでみたいと思います。年頭のあいさつでは去年を乗り越える一年にしたいと話しましたので、そのことと重ね合わせるなら、動きに精彩を欠いていた去年を乗り越えて、機敏に動けるように軽くなる(それは心も体も持ち物もということですが)、この点に力を入れてみたいと思っております。
さて今日の福音ですが、イエスは神殿で羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らしと、ずいぶん手荒なやり方で神殿にあるものを一掃しました。昨年までの私の理解は、このような荒っぽい方法で、イエスは神殿を清めたのだと考えていました。けれどももう少しじっくり読んでみると、神殿からいけにえの動物をすべて追い出すということは、神殿を清めるということだけではないことに気が付きました。
当時の神殿は、いけにえをささげて礼拝する場所として用いられていました。幼子イエスを抱きかかえたヨセフとマリアは、鳩を神殿でささげました(ルカ2章24節参照)。いけにえをささげることでこの神殿は活用されていたのですから、いけにえの動物がすべて追い払われれば、神殿は神殿としての役割を果たせなくなります。
実はイエスのねらいはそこにあったのです。神殿からすべての動物を追い払うことで、この神殿はもはや役に立たないものとなったということを人々に知らせようとしたのです。もはや神殿では動物をいけにえにして礼拝は行われない。代わりに、イエスご自身が、十字架上で命をささげることでまことのいけにえとなってくださる。神と人間との間を取り持つささげものは、牛や羊や鳩ではなく、イエスキリストこそがまことの仲介となるということを今日の出来事で示したのです。
この点をふまえてイエスの言葉をもう一度考え直してみましょう。イエスは鳩を売る者たちにこう言いました。「このような物はここから運び出せ。」これまで大切に取り扱われてきたいけにえの儀式、そのいけにえの動物をイエスは「このような物」ときっぱり退けました。
誰もが大切だと考えていたものであっても、いったんそれを横に置いたとき、それらを頭の中から追い出したとき、もっと大切な物、唯一の大切なものに気付くことができるようになります。私自身にそれを当てはめるなら、15年目を歩き始めて、直前の2年間は結構いろいろやったじゃないかと思ったりもするのですが、これだけのことをしましたと私が考えているものは、ほんとうに神の望みにかなっていただろうかと思うのです。
「ユダヤ人たちはイエスに、『あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか』と言った。」これは、イエスに食ってかかる態度です。「なぜあなたは、わたしたちの礼拝にけちを付けるのですか」と言っているようなものです。動物のいけにえをささげて礼拝をおこなうやり方に、これまでだれも反対意見を言う者はなかったので、イエスの言葉にかっとなったのです。
「このような物はここから運び出せ。」イエスは、私がささげようとしている実りを退けるかも知れません。そうなると私はイエスに食ってかかって、「何てことをするんですか。どれだけ苦労してここまで積み上げたと思っているんですか」と言うだろうと思います。
このような態度は、かつてのユダヤ人たちがイエスに詰め寄ったのと何も変わりません。「なぜあなたは、わたしたちの成し遂げたわざにけちを付けるのですか」と言っているのと同じなのです。私の態度は正しいのでしょうか。私が神に口答えして、神に不平を言うことは筋が通っているでしょうか。
ここでもう一度考え直してみると、本当に神が求めているものを私はささげてなかったのではないかと反省させられます。もしかしたら、私が満足しているものを神に報告していただけではないだろうか。もっと今日の朗読の出来事に倣って、私が仕上げた何かをささげるのではなくて、自分を無にしてイエスご自身をささげることに徹する必要があるのではないか。あらためてそう思いました。
確かに、私たちはなにがしかのことを成し遂げてきたかも知れません。けれども、それにしがみついてしまっては、私たちはイエスを告げ知らせる人であり続けるのは難しい、神をたたえる純粋な信仰者であり続けるのは難しいと思います。いつの間にか私のしたことを告げ知らせる人、私の成し遂げたことを礼拝する人になってしまうのです。
そうならないためには、私の心からいっさいを運び出す。私の成し遂げたことをいったん横に置いてみること。これがいちばん分かりやすい試験方法です。もしも私の積み上げたものに執着があるなら、やはり私はイエスにもっと徹底的に砕かれる必要があるのです。
私たちにも、イエスの叫びは向けられています。「このような物はここから運び出せ。」パウロはイエスの叫びについて考えさせる次の言葉を言っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3:16)。私が自分という神殿に神の心にかなわない物をたくさん置いていれば、イエスの言葉通り「このような物はここから運び出せ」と言われてしまうことでしょう。
最終的に、私たちキリスト信者はみな、おのおの信じているイエスご自身をささげものとしてささげなければなりません。それはたとえば、「わたしではなく、わたしの中におられるキリストがほめたたえられますように」という祈りを心で思い浮かべて、ことに当たるとか、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14:8)と繰り返し言い聞かせて務めを果たす、こんな心がけがあれば誰もがみな私の中におられるイエスをささげることができるのではないでしょうか。
私がしがみついているものを全部心の中から運び出しましょう。大変つらいことかも知れません。すべて運び去って、もう一度イエスを告げ知らせる者として出直しましょう。私が頼りにしていたものをすべて取り去ったとき、初めてイエスにのみより頼む望ましい礼拝が始まるのです。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第4主日
(ヨハネ3:14-21)
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