主日の福音06/03/12
四旬節第2主日(マルコ9:2-10)
これからも徹底してイエスに聞き従う

本日をもって中田神父は40歳になりました。介護保険の支払いをしておられる皆さんの仲間入りをすることになりました。振り返ってみると30代の10年間は、ぶっ倒れるまでやるぞー、というつもりで走ってきましたが、40歳になってみるとぶっ倒れてはいかんなあ、と素直に思います。30代でぶっ倒れたら、働き過ぎと同情してもらえますが、40代で倒れたら、生活習慣病と笑われてしまうからです。

生まれて初めて、誕生日を「疲れたあ〜」と思って迎えました。たとえ夜中に誕生日を祝ってもこれまではそんなこと考えもしなかったのですが、過ぎた10年間を思い出して、ついついそうつぶやいたのだと思います。いずれにしても、なってしまったものは仕方ありません。これからの40代を倒れないように進んでいきたいと思います。

考えてみたら、イエスはおそらく30歳頃に宣教活動に入り、3年間の活動のあとに十字架に張り付けになられて命をささげておられます。それはつまり、中田神父が考えていた「ぶっ倒れるまでやるぞ」という年代だったわけです。もう少し上品な言い方をすれば、「燃え尽きるまで」ということでしょうか。

「燃え尽きるまで」とか「ぶっ倒れるまで」という生き方は、ろうそくの炎が消えるちょっと前に大きな炎を上げるときのような、大変大きなエネルギーを発揮する生き方だと思います。ライブドアの前の社長も、新しい球団を立ち上げた楽天の社長も、30代です。楽天の社長はもしかしたら今日の時点では40歳になったかも知れませんが、ものすごいエネルギーを発揮する年代にあることは確かです。

同じく、イエスも30歳で宣教活動に入り、最後を迎えるというのは何か意味するところがあったのかも知れません。今日の朗読箇所は、「イエスの姿が変わる」という箇所ですが、一瞬衣服が真っ白に輝くわけです。実際にそうだっただろうと思いますが、私が言う「燃え尽きるまで頑張る世代」でもあったわけですから、燃え尽きる直前の大きな炎を上げる瞬間がそこに織り込まれていたと言っても良いかも知れません。

モーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っています。旧約聖書の中の偉大な人物を2人も見ているという、ものすごくドラマチックな場面です。ペトロが小屋を建てようと提案したのも無理はありません。ただしペトロの考えは、イエスを人間の30代と同じ枠にはめようとすることではないかと思いました。このすばらしい場面をその場にとどめて、人々にも見せたかったのでしょう。けれどもこのような努力は、神であり人であるイエス・キリストにはふさわしくなかったのです。

そのことを証明するように、彼らはみな雲に覆われ、雲の中から声が聞こえました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」イエスは人間としての輝かしい30代には決して収まらない、もっと偉大なお方です。だからこそ、ペトロの考えの中にイエスを収めることなく、その中にとどめ置こうと考えていたその家を打ち壊して、イエスに耳を傾ける。そうして初めて、イエスの偉大さをありのままに認め、受け入れることができるようになるわけです。

ペトロは仮小屋を建ててモーセとエリヤ、またイエスをそこにお納めしようと考えたわけですが、この態度はペトロ自身の心の動きでもあると思います。つまり、ペトロはイエスを自分の理解する範囲の中に収めようと一生懸命になっていたのです。そうではなく、イエスに徹底的に聞き従う、イエスを受け入れるために自分の考える枠を壊してでも聞き従う。この態度が必要だったわけです。

今日、中田神父もはっきり分かりました。説教を毎週練りながら、ある時は中田神父の理解の中にイエスを収めようとしていたかも知れません。たとえばそれは、何かはっきりと伝えたいメッセージがあって、それに合うようにイエス様の姿を取り上げて話したりとか、あるいは今回のようにいくら考えてもつかめなくて、いよいよ時間が迫ってきたので時間内に収まるように適当にイエスの姿をつまみ食いで紹介したりと、ありとあらゆる形でイエスを自分の置かれている状況の中にはめ込もうとしていたのかも知れません。

そうではなく、もっとイエスのありのままを紹介するためにこそ時間を費やし、黙想する必要があるのだと思います。それは言い換えると、自分の考えている枠の中にイエスがとどまるはずはないのだから、もっとすばらしく、もっと偉大なイエスを紹介するために、自分が今週用意しようとしていた枠組みを壊すこと、この枠にすら収まらないということを毎週皆さんお一人おひとりに示すことが、これから40代に入ってからの目標なのだとはっきり理解したわけです。

もう一回り大きな型枠を作るためには、以前のものを壊す以外に方法はありません。少し伸ばして、というようなやり方はないわけです。以前考えていたイエスの姿よりも、さらに偉大でさらに崇高なイエスを紹介するためには、これまでの枠組みを壊す以外にない。それが雲の中から聞こえたという「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声なのだと思います。

「あなたが考えているイエスは目の前にいるイエスとは違う。もっとイエス自身の声に耳を傾け、あなたが考えていた以上の姿をしっかり捉えなさい。」そう呼びかけているのではないでしょうか。

イエスにこれからも徹底して聞き従うなら、私自身もさらに偉大でさらに崇高なイエスにこれからも出会うことができ、皆さんにそのことを分かち合うことができるでしょう。40歳の記念となる日曜日にたどり着いた境地です。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第3主日
(ヨハネ2:13-25)
‥‥‥†‥‥‥‥