主日の福音06/03/05
四旬節第1主日(マルコ1:12-15)
四十日もの誘惑を退けるたった一つの道

冬のオリンピック、日本選手団はメダルが1個も取れないのではないかと見守っていましたが、女子フィギュアスケートの選手が金メダルを取ってくれたことで、心配が一度に吹き飛んだ気がします。いよいよ困ったときには、女性が頼りなんだなと、男性の私は思いました。実際男子の選手はメダルを1個も取れなかったわけですから。女性はさすがです。もうひとこと言えば、荒川「静香」選手は偉いと思いました。

身近な話題はこの辺にして、今日の福音朗読に入っていきましょう。マルコ福音書が伝える荒れ野での誘惑とその後の福音宣教の始まりについてです。正直に言うと、たったこれだけなの?と言いたいくらい短いのですが、この中で今週の糧を得る努力をしてみましょう。

イエスは四十日間荒れ野にとどまり、サタンから誘惑を受けたとあります。この誘惑は、大変厳しい試練だったわけですが、私たちはその様子をどうやったら身近に感じることができるでしょうか。四十日間の間、誘惑に決して耳を貸さなかったわけですが、それはどのようにして可能になったのでしょうか。考えてみたいと思います。

そこで、私たちが出来事を身近に感じるために、次のようなことを考えてみました。ある人が、四十日間家に尋ねてきて、これこれの人を罠に陥れたいので一緒に手伝ってほしいと言いに来たとしましょう。この人は別の誰かに憎しみを覚えていて、罠に陥れるために自分にも手を貸してほしいと誘惑しに来たのです。

とんでもない、自分はそんなことに協力するつもりはないと、皆さん誰もが思うことでしょう。頭で考えればそんなことはできるはずがないと分かっていますが、毎日毎日、それも四十日間玄関にやってきて罠に陥れるために手を貸してくれと言われたらどうなるのでしょうか。

気味の悪い人だなあと思って絶対にその人を入れないようにしようと思っても、その人はどんな時間にでもやって来て、これこれの人を罠に陥れる手伝いをしてほしいと言い続けます。今日も、明日も、その次の日も、どんなに家の玄関と心の扉を閉めていてもちょっとした隙にその悪人がやって来て、繰り返し誘惑したとしたらどうなるでしょうか。

もしかしたら、どんなに心の清い人でも、その悪い人の誘いに負けて、罪もない誰か別の人を罠に陥れる手助けをする気になるかも知れません。頭では絶対にいけないこと、決して賛成してはいけないことと分かっていても、私の判断を鈍らせ、普通なら同意するはずのない悪事に同意するということが、四十日もの誘惑にさいなまれては起こってしまうのではないでしょうか。

皆が皆、同じように悪事に加わるとは言い切れませんが、四十日間続けての誘惑とは、人間の普通の判断も狂わせ、絶対賛成するはずのない悪事に賛成してしまうほど人間を弱らせてしまう危険があるわけです。それほど大きな誘惑が、イエスさまが体験された四十日間のサタンの誘惑だったということです。

少しは、イエスさまが荒れ野で過ごされた四十日間を想像することができたでしょうか。さてこれからが問題ですが、ではイエスさまはどのようにしてこの長くて激しい誘惑を乗り越えることができたのでしょうか。私たちが先に考えたたとえに戻って、また考えを進めていきましょう。

毎日毎日、ある人がこれこれの人を罠に陥れたいから協力してくれと言いに来ます。その人をきっぱりと断るために、いちばんすぐれた方法は何なのでしょうか。ほかに何人かを集めておいて追い払うのがいちばんよいのでしょうか。何日かは理解してくれる人が力になってくれて追い払ってくれるかも知れませんが、四十日の間休まず来てくれと言うのは無理な話です。

あるいは自分が気持ちの強い人になることが、いちばんすぐれた方法でしょうか。決心を変えない、意志の強い人になればよいのでしょうか。誰もがそうなれるものでもありませんし、意志の強い人になる前に、誘惑に負けてしまうかも知れません。結局、自分に頼ったり、別の人に頼っても、この長く激しい誘惑に打ち勝つことはできないのではないでしょうか。

では、この四十日の誘惑に打ち勝ついちばんすぐれた方法は何なのでしょうか。それは、意外な答えかも知れませんが、自分も含めて人間に頼らない、ということです。人間に頼るのではなく、誘惑を一度も受け入れることのなかったイエス・キリストに頼ること。これが、私たちにとって誘惑に打ち勝ついちばんすぐれた方法なのです。

人間は、中田神父も含めて、ほんのちょっとの隙があれば弱さに負けてしまう危険があります。四十日間とは、長い果てしない期間と言ってもよいわけですが、その間一度も誘惑の入り込む隙を見せないということは、人間である限り不可能なことです。不可能です。

私に限ったことではありません、すべての人間が、ちょっとの隙も見せない、何の誘惑も感じないとは言えないのですから、ほかの誰かを頼ることも確かな方法とは言えません。ただ一つ、一度も誘惑を受け入れなかったイエスに頼って誘惑を退けること。これが、人間に示され唯一の確かな道なのです。イエスはご自分が父なる神に信頼を寄せて四十日を過ごすことで、自分に頼るのではなく、神に頼って初めて誘惑を退けることができるということを身をもって私たちに示してくださったのです。

イエスのこうしたお手本を見て、私たちは何を考えるべきでしょうか。こういうことではないでしょうか。つまり私たちに残された人生こそが、悩み多い四十日間だということです。これから全うすべき人生の中で、毎日毎日やってくる誘惑に直面するかも知れません。ほんの少しの隙があっても、私たちは誘惑するものに負けてしまうかも知れないのです。そんなときこそ、人間に頼るのではなく、祈りを通して、またはご聖体や赦しの秘跡といった恵みを通してイエスに頼る、イエスの力を仰ぐことが、いちばんすぐれた方法なのです。

私たちの誘惑との戦いの時間は、残りの人生を全うするまで今後もずっと続くわけですから、秘跡を通してまた日々の祈りを通してイエスに信頼を寄せ、イエスの助けを求めて人生を全うしたいものです。

黙想会もいよいよとなりました。黙想会は一年に一度みずからを神さまに向け直すまたとない機会です。イエスに頼って生きることの大切さを、この黙想の期間に学びなおしましょう。赦しの秘跡とご聖体にあずかって、恵みを通して誘惑に打ち勝つという生き方を私の生活に根付かせることができるように、ミサの中で助けを願いましょう。
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‥次の説教は‥‥
四旬節第2主日
(マルコ9:2-10)
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