主日の福音06/02/12
年間第6主日(マルコ1:40-45)
だれにも何も話さないと決めてみよう

私たちのカトリック教会には典礼暦という暦があって、救い主の誕生を待ち望む待降節から暦が始まり、一年後の最後の日曜日、王であるキリストの祭日で暦が終わっていることは十分ご承知だと思います。

もう少し説明を加えると、この年間の暦は三年周期になっていて、マタイ福音書を中心にして日曜日の典礼を組み立てていくA年、マルコ福音書を中心にして組み立てていくB年、ルカ福音書を中心にするC年に分けられています。三年周期が繰り返されている中で、今週のようにマルコ福音書が日曜日の福音朗読に据えられているということは、ことしは典礼暦のB年であるということです。

ここまでは仮に初めて聞いたという人がいたとしても、説明を聞いたことで理解できると思います。ただしここからはもっと注意して聞かないと分からなくなりますのでますます耳を澄まして聞いてください。

朗読されているマルコ福音書は、全体では16章あります。今週朗読されているのは第1章40節から45節、第1章の最後の部分なのですが、マルコ福音書全体からすると、その16分の1を読み終えたに過ぎません。

それなのにです。それなのに、私たちはこのマルコ福音書の最初の第1章の中でイエスが語った第一声について、ほとんどの人が覚えていないのではないでしょうか。ちなみにこの第1章でイエスが語った第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というものでした。このイエスの第一声が今週の朗読箇所に大きな役割を果たしていますが、正直言いますと、大きな役割を果たしていたのだと私自身もあらためて気付かされたのです。

つまりこういうことです。この第1章ではイエスがガリラヤで伝道を始め、四人の漁師を弟子にして、汚れた霊に取りつかれた男をいやし、多くの病人をいやし、巡回して宣教し、重い皮膚病を患っている人をいやしたというのが全体の流れですが、この第1章全体はイエスの第一声「時は満ち、神の国は近づいた」という声に包まれているのです。

この点に今年あらためて気付かされましたが、同時に今日の重い皮膚病を患っている人をいやした場面まで読み進めるうちに、私はすでにイエスの第一声を忘れていたのだということにも気付かされたのです。イエスのこのみわざが、神の国が近づいたことを告げ知らせようとして行われた奇跡であることを、全体で16章あるマルコ福音書の読み始めに過ぎない部分で、もうすでに忘れてしまっていたのです。

人間ですから、何かを忘れるということはしかたのないことかも知れません。けれども、いよいよこれからイエスの活動が本格的になるという段階で、私たちはイエスが行っておられる奇跡の意味とか目的を、すでに見失いかけていたのです。はっきり言うと、重い皮膚病を患っている人がいやされたのを見て、「ああすごいなあ、ああビックリしたなあ」と、奇跡にばかり目を奪われてしまっていたのではないでしょうか。

口を酸っぱくして言いますが、イエスが行っておられる奇跡は、「神の国は近づいた」ということを知らせる手段の一つでした。神の支配がイエスによってもたらされたということを知らせる手段でした。それでも私たちは、すでにイエスの期待からそれ始めて、イエスさまは奇跡を行ってすごい力を持っているんだなあとか、間違った方向を向いていたのです。

実は私たちのこうした弱い姿が、今日の朗読箇所の中で見事に描かれています。それは、重い皮膚病をいやしていただいた当の本人です。この男は神の支配が始まったのだという一つの実例として病をいやしていただき、イエスから「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく注意を受けたのです。

ところが実際は、「その場を立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」とあります。奇跡のあまりのすばらしさに、男は我を忘れてしまったのでしょう。私はこの男の行動を、あれほどの奇跡を体験すれば、それは無理もないよなあと同情して見ていたのですが、よく考えると私たちもまったく同じ状態に置かれていたことになります。

「神の国は近づいた」「神の支配がいよいよ始まったのだ」ということを確認していながら、私たちはもうすでにイエスの行われている奇跡の目的を忘れて目の前のことに釘付けになっていたのです。奇跡的にいやしていただいた後にイエスの忠告も聞かずに自分が病を治してもらったと大騒ぎしているこの男は、実は私たちそのものだということです。

このことは、何を意味しているのでしょうか。たった今、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく注意を受けてもそれを守ることができない一人の男。全体の16分の1、第1章を読み終えたばかりなのに「神の国は近づいた」と態度で示しておられるイエスの思いを忘れて大騒ぎしている私たち。この悲しいほどの弱さは、何を意味しているのでしょうか。

これほどの人間の弱さは、救いに関して私たちがまったく無力なのだということをはっきり悟らなければならないと教えているのではないでしょうか。今日私たちが耳で聞いた奇跡から、神の支配はますます広がっているということすら思い起こせないのですから、救いに関して私たちは何も言えない、神に全面的にすがるしかないということなのです。

「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」。こう言われているにもかかわらず、私たちは暮らしの中で何とおしゃべりなのでしょう。いったいどれほどの言わなくてよいことを口にしたり態度で表したりしていることでしょう。神さまがいつ私のために働いてくれているのか分からないとか、自分ばかり教会のことで働かされていて割に合わないとか、まったく言わなくてもよいことを私たちはついつい口にしてしまうのです。

だれにも、何も話さないことは、意味のないことでしょうか。考えてもらう一例として、とある修道会のことを紹介しておきたいと思います。長崎本土の愛宕という場所に、一つの女子修道会があります。この修道会は簡単に言うと、だれにも何も言わない修道会です。活動としては、祭服を作っています。他にもあると思いますが、いちばんの活動は神に祈りを捧げること、神とだけ語り合うことがこの修道会の務めです。

彼女たちはだれにも何も話しません。けれども中田神父は彼女たちが縫い上げた祭服を着て、ミサを捧げています。だれにも何も話さない彼女たちの働きを身にまとって、司祭が祭壇でミサを捧げているとは不思議です。彼女たちの働きを知れば、だれにも何も話さなくても、十分に神のために働くことができることが分かるのではないでしょうか。

もしかしたら私たちは、ほとんど言わなくてもいいことを口にしているのかも知れません。私たちがあえてだれにも何も言わないと心に決めたとしたらどうなるでしょうか。きっと、あえて何かを語り始めるときには聖霊が働いて私の口に新しい言葉を、神への賛美を授けてくださるのではないでしょうか。

だれにも、何も話さないと決めたときこそ、何か話し始めるときに神さまのお役に立てることを話しているのか、そうでないのかが人々の前に明らかにされるに違いありません。
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‥次の説教は‥‥
年間第7主日
(マルコ2:1-12)
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