主日の福音06/01/22
年間第3主日(マルコ1:14-20)
イエスは私にも悔い改めを促しています

先週までにバイクの教習に5回通いました。5回目までが最初の第一段階なのですが、この5回目は、第一段階から第二段階に進むことができるかどうかを見極める時間でもありました。ところがこの日の教習はまったくいいところがなくて、上り坂の途中でバイクを止めて、そこから発進するという課題を与えられたのですが、進むどころか後ろにずるずる下がってしまうのです。これには参りました。

何回やってもうまく坂を上れないものですから、しまいには先生が降りてきて私が乗っているバイクのハンドルにに手を掛けて、「アクセルでエンジンの回転を上げる、半クラッチにする、回転を落とさずに後輪のブレーキを離す。こうすればちゃんと上るんだ」とガミガミ言われました。

いやな予感がしたのですが、案の定その日の教習を終わったところで、「これでは第二段階に進めません。もう一度、今日の課題に取り組んでもらいます」と言われてしまいました。でもその先生は「車の坂道発進と変わりませんから、そのつもりで操作してください」と言っただけで、実演はしてくれなかったんです。坂道発進はこうするんだよと、実演をして欲しかったなあと思います。

なかなか学校に行けないからでしょうか、他の生徒さんがどんどん先に進んでいきます。本当は何も気にする必要はないのですが、同じ日に入校した一人の学生さんはその次に再会してみたらもう学校内をすいすいとバイクで乗り回していました。顔つきまですっかり変わって、「自分は第一段階を終了したんだ」という自信に満ちていました。

福音に移っていきましょう。イエスはガリラヤ湖のほとりで漁師に声をかけ、ご自分の弟子にします。「わたしについて来なさい」と声をかけられたシモンとその兄弟アンデレは、「すぐに網を捨てて従った」というのです。生活の糧を得ていた網をすぐに置いてイエスに従ったというのはにわかには信じがたいことですが、その時二人は、きっと顔つきががらっと変わったのではないかなと思います。

弟子たちは、イエスが直接声をかけ、そばに置いた人々でした。どうかすると私たちは、自分たちは弟子たちのように偉くはないからと、自分たちとは違う世界の話にしてしまうことがありますが、今日の福音をガリラヤで呼ばれた弟子たちだけの話で終わらせてしまうならば、今日の朗読箇所は私たちに何も実りをもたらしてくれません。おそらくそのような読み方で終わってしまう人は、一つのことを見落としているのだと思います。それは、今日の出来事はイエスがガリラヤで神の福音を宣べ伝えている中で起こったということです。

つまりこういうことです。イエスはガリラヤで、「弟子になりたい人はいませんか」と声をかけて回ったのではなくて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言いながら、途中で弟子を集めた、ということです。イエスは神の福音を宣べ伝え、その中の一つの活動として、十二人の弟子を集めたということなのです。

どこがどう違うのでしょうか?もしイエスが「弟子になりたい人はいませんか」と声をかけて回っていたとすれば、それは弟子として選ばれた人だけに関わりのある活動ということになります。ところが実際は、「悔い改めて福音を信じなさい」という招きはすべての人に向けられていて、そのうちのある人々には弟子になるように呼びかけたということなのです。

ではどう考えたらよいのでしょうか。こう考えると良いと思います。すなわち、「悔い改めて福音を信じなさい」という呼びかけに応える務めはすべての人にあるのであって、私たちも例外ではないということです。十二人の弟子として呼ばれることはすべての人に求められていませんが、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という招きに、それぞれ工夫して応えているか考える必要があるのです。

そこであらためて考えましょう。「神の国は近づいた」とはどういうことなのでしょう。ここが分からないと、「悔い改める」「福音を信じる」ということも始まりません。どういう言葉に置き換えたらよいでしょうか?

イエスの第一声としてマルコ福音書が記した「時は満ち、神の国は近づいた」とは、「イエスがおいでになって、すべての人に正義と平和がもたらされる時が満ちた」ということです。そうすると「悔い改めて福音を信じる」とは、「すべての人に正義と平和を行き渡らせるイエスを信じ、このイエスに希望を置いて生きる」ということになります。

私は、すべての人に正義と平和を行き渡らせるイエスを信じているでしょうか。どんなときにもイエスに希望を置いて生きていると言えるでしょうか。そもそも自分自身がイエスから求められている生き方に当てはまっているかをどのようにして確かめたらよいのでしょうか。

いちばん分かりやすい点は、生活の中で祈っているだろうかということです。それも、私のためだけではなく、誰かのために祈っているだろうか、ということです。そう言われて、自分は誰かのために祈ったことがないのではないかと考えている人が多いのではないでしょうか。

よく考えると、自分のためには祈っていたけれども、人のために祈ったことはなかった。もしそうでしたら、私たちは誰かのために今からお祈りしますというのではなく、誰かと出会う時、誰かのために何かお世話しなければならない時、そのついでとして、ちょっとした祈りを込めたほうがお手軽なのではないかと思います。

誰かのためと言いましたが、例えば家族のためでも良いでしょう。あなたが母親として、妻として、家族のために料理を作ったり洗濯したりしています。この食べ物を一緒にいただく時に、家族みながイエス様のために働く力を得ることができますようにとか、洗濯したこの洋服を着るたびに、家族がイエス様の喜ぶことをしますようにとか、祈りを込めてあげるということです。

もしも家族の中でけんかが絶えない、心配事もめ事が絶えないとしましょう。どうかイエス様、私の家族が食事を一緒にする時に、あなたの平和に満たされますようにとか、イエスの正義と平和が行き渡りますようにとその場その場で祈ることが、いちばん手っ取り早いのではないかと思います。

これまで、実践できてなかったとしたら、すぐに取り入れましょう。私たちがあえて他の人のために祈っているなら、イエスの正義と平和を行き渡らせようとしているのですから、確かに「悔い改めて福音を信じている人」です。忙しい毎日の中で人のために祈る時間を探すのは難しい。そこで思い切って、その人と出会うまさにその時に祈ってあげるようにしましょう。人のために祈ることで、私も神の国をこの世界に行き渡らせる協力者となりましょう。
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(マルコ1:21-28)
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