主日の福音06/01/15
年間第2主日(ヨハネ1:35-42)
来なさい。そうすれば分かる
最近自動二輪の免許を取るために自動車学校に通い始めました。簡単に言うとバイクの免許です。このバイクの免許は小型限定・普通・大型とあるのですが、そのうちの小型限定の免許を取ることにしました。小型限定を選んだ理由は、交通船に乗せることのできるバイクが小型限定のバイクしか積めないからです。今月いっぱい自動車学校に通いまして、晴れて免許を取得したら、バイクを新調して乗ってみようと思っております。
自動二輪の講習を受けてみて、学校に行かないと体験できないことがいろいろ分かってきました。私が講習を受けている小型のバイクですが、始めに先生が「自分が講習を受けるバイクを押して、コースの真ん中まで来てください」と指示をしたんですね。それで125ccのバイクを押して指示された場所に行こうとしたら、意外とこのバイクが重たかったのです。小型のバイクなのにそんな大げさなと思われるかも知れませんが、私が考えていたよりは重くてビックリしました。
また、講習を受けているバイクは車のようにギヤが付いています。1速から4速までギヤがあって、徐々に速度を上げていく仕組みになっていますが、その1速で、しかもアクセルを回さずに発進と停止の練習をするのが最初の講習でした。このいちばん遅い速度で構内をぐるぐる回るわけですが、私はこんなに遅くては倒れてしまうに違いないと思って、ずっと片足を地面に付けながら走らせていたのです。
すると担当の先生から「中田さん。足を地面に付けてはいけません。ちゃんと地面から離してください」と指示されました。無理無理、と思っていたのですが、膝をしっかり内側にしめておけば、実際は倒れないのだということも、乗ってみて、指示されてみて、初めて分かりました。これは面白そうだなと、次の講習が楽しみになったのでした。
今日の福音に入りましょう。洗礼者ヨハネの弟子であった二人の人が、ヨハネに促されてイエスのもとに行き、「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねると、イエスが「来なさい。そうすれば分かる」と言われ、その日二人の弟子はイエスのもとに泊まったという様子が描かれています。このやりとりの中で「来なさい。そうすれば分かる」というイエスの言葉を、今週取り上げてみましょう。
洗礼者ヨハネは自分を慕って弟子入りした二人の弟子に、「あの方こそ神の子羊、あの方こそ付いていくべきお方だ」とイエスを示して二人の弟子を送り出しました。二人の弟子がイエスに「先生どこに泊まっておられるのですか」と尋ねたわけですが、これまでずっと私は、この二人はなんておかしな質問をするんだろうかと思っていたのです。
もっと気の利いた質問、たとえば「先生はどんなお考えの持ち主ですか」とか「将来の計画を教えてください」など、聞き方があるだろうにと思っていたのですが、今回あらためて考え直してみたとき、彼らが最初に尋ねたことは、もっともな質問だったんだなあということが、ようやく理解できました。
なぜ二人の弟子が「先生どこに泊まっておられるのですか」と尋ねたのか。それは、彼らはこれまで洗礼者ヨハネの弟子として、おそらく洗礼者ヨハネと生活を共にして、洗礼者ヨハネのもとに泊まったりしていたのではないでしょうか。そうであるならば、二人の弟子がイエスのもとに来たのは、イエスを新しい先生として認め、イエスのもとに泊まり、生活を共にしようという決意があったので、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねたのでしょう。
彼らはイエスがどこに泊まっておられるかを見て、自分たちもこれから一緒に暮らして、イエスの弟子として歩いていこうと心に誓ったのだと思います。そう考えれば、「どこに泊まっておられるのですか」という質問は、「わたしたちはあなたの弟子になって、生活を共にしたい」という意味に取ることができます。これで二人の弟子の質問も納得できました。
「どこに泊まっておられるのですか」という二人の質問に、イエスは「来なさい。そうすれば分かる」とお答えになります。来て、一緒に泊まり、同じ時間を過ごせば、私が誰だか分かるはずだ。そんな呼びかけだったのではないでしょうか。
私は、イエス様が仰った「来なさい。そうすれば分かる」という言葉は、先週から通い始めた自動車学校の教習を受けながら思い出しました。自分が乗る予定のバイクのことを、始めはたいしたことはないと思っていました。けれども、実際に教習に入ってみると、小型のバイクなのに思ったよりも重たくて驚きました。先生からも、「甘く見ているとバイクもろとも飛ばされて病院送りになりますよ」と注意を受けました。
小さなことですが、免許を取りに行ってみると教習を受けるバイクの重さや、油断するとケガをすることや、あんなに重たいものでも指示通りに走れば倒れないということなど、教習を受けて初めて分かることがいろいろありました。この体験が、イエス様が二人の弟子に呼びかけた「来なさい。そうすれば分かる」という言葉を思い出させたのです。自分が今体験しているその場で、聖書の言葉が思い浮かぶ。こんなに幸せなことはありません。
ところで皆さんもまた、今日のイエス様の言葉を生活の中で体験することになるでしょう。今から話すような場面に皆さんが立ち会うならば、きっと「来なさい。そうすれば分かる」と、イエス様の言葉を繰り返すに違いありません。いったいそれは、どういう場面・どういった場所でしょうか。
次のような事情の人を、皆さんはご存じないでしょうか。教会にしばらくご無沙汰している人で、理由がはっきりしている人です。教会内での人間関係で失望し、教会に背をそむけてしまったとか、何かの計画を立てたが、そのやり方に納得がいかず、離れてしまったなど、理由がはっきりしている人です。
こうした人に出会って、教会の話になると、その人はいろんな事情を述べてもう教会に行きたくない、関わりたくないと仰るだろうと思います。皆さんはその時何と答えますか?そうだねぇ。それも仕方ないよねぇと答えるでしょうか。
私は、今だったら皆さんはイエス様の言葉を繰り返すことができるのではないかと思っています。つまり「来なさい。そうすれば分かる」ということです。教会と関わりたくないと仰っているその人が考えている雰囲気が、今も続いているかどうか、来てみれば分かります。人間関係に疲れて、もう教会で疲れたくないと仰っていた人も、今の教会でも同じように感じるのか、来てみればいいのになあと思います。来て、一度でもいいから日曜日のミサに参加すれば、何かを感じるに違いありません。
ただし、いろんな家庭の人や生活のただ中にある人々の細やかな事情を知っているのは皆さんお一人おひとりです。つまり、皆さんが「来なさい。そうすれば分かる」という言葉をかけてあげる大切な人材なのです。今来ないでいつ来るのですか、と言えば言い過ぎかも知れませんが、きっと、教会に疲れてしまった人も、今ならそんなことはないだろうと思っています。少なくとも、今ここにお集まりの皆さんは、教会にガマンしてガマンして座っている人は一人もいないのではないでしょうか。
もし、楽しくてたまらないとまでは行かなくとも、教会で疲れることはないよと自分で分かっているのでしたら、教会に嫌気がさしたり、教会のせいで疲れたという人に、皆さんお一人おひとりは出番が来ていることになります。今こそ、その疲れている人に声を掛けるときです。「来なさい。そうすれば分かる」。
どうぞ、イエス様のいる場所に、教会に疲れて日曜日の礼拝を投げ出している人を呼び戻してください。イエス様の言葉「来なさい。そうすれば分かる」とのみことばを、あなたのそばにいる人にかけてあげてください。あなたが日曜日に教会に行って少しでも力を得て帰っているのでしたら、教会に行って疲れることなんてないよと声をかけて欲しいのです。
イエスに従った二人のうちの一人アンデレは、兄弟シモン・ペトロを誘いました。わたしたちも、先ずは兄弟姉妹といった身近な人に、「来なさい。そうすれば分かる」という声をかけてあげましょう。声をかけることに及び腰だった人も、これまでの自分を今年は一つ乗り越えていくことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
年間第3主日
(マルコ1:14-20)
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