主日の福音06/01/08
主の公現(マタイ2:1-12)
神に栄光を帰す「よーし」の心

先週お知らせしました通り、ふるさと新上五島町鯛ノ浦教会に里帰りしてきました。2泊3日、ほとんどこたつの留守番をしに行ったような休みでしたが、両親も元気でしたし、兄弟姉妹もそれぞれ元気でした。変わったことがあったと言えば、実家から教会までの距離が約1キロあるのですが、途中の国道で改良工事の手が加えられていまして、小学校時代お世話になった文具店は立ち退きをさせられて新しい場所に移っておりました。

また鯛ノ浦教会でのミサを主任神父様と一緒に捧げさせてもらいましたが、ミサに参加する方の顔ぶれが少しずつ変わっていまして、平日に来る子どもたちはどうやら中田神父の名前も知らなそうにしておりました。もはや郷里の顔とは言えなくなってきているのだなあと実感した次第です。

今週の「主の公現の祭日」ですが、御降誕のミサの時に約束した通り、「降誕祭のミサと御公現のミサとは密接な関係がある」ということから入りたいと思っているのですが、主の降誕日中のミサの聖書と典礼に掲載されていた記事を参考にすればすぐにまとまると思っていたところ、実際にまとめようとしたら七転八倒しまして、どう説明してあげれば分かりやすく伝えることができるか、たいへん頭を悩ましました。今週ほど、人の書き物をまねするのに困難を感じたことはありません。

その七転八倒したあげく、これだけは伝えられるかなあと消化できた内容は、主の降誕も公現も「神の栄光の現れ・神の顕現を記念するものである」ということです。一方は誕生の出来事を通して神の栄光がこの世界に現れましたよと知らせますし、今日の典礼は幼子が当方からはるばるやってきた外国人にも礼拝されたことを通して神の栄光が世界中に示されましたと知らせる、どちらも神の栄光の現れを記念するという点で密接に関わっているということです。

ではどちらも神の栄光の現れを祝うのであれば形を変えて繰り返しているだけなのかと思われるかも知れません。あえて「主の公現」で強調されている点を取り上げるとすれば、「占星術の学者たちが東方からイエスを拝みに来た」という点にあると思います。つまり、「神の秘義が現れた→この神のみわざに対して→神に栄光を帰す(礼拝する)」という態度を強く打ち出しているわけです。

そこで今週の典礼が私たちに呼びかけていることをまとめると、「神の秘義は現れました。わたしたちは神のみわざに栄光を帰しましょう」ということになります。何だかたいへん難しく聞こえるかも知れませんので、皆さんが必ず体験したことのある例を当てはめて、「神のみわざに栄光を帰す」ということを今日覚えて帰りましょう。

皆さんが大波止ターミナルから船で伊王島・高島に帰ってくるとき、何か荷物を持っているとしましょう。船が桟橋に近づいたときに皆さんは自然と荷物を持つ手に力が入るのではないでしょうか。「さあ、これから船に乗るぞ」そういう気持ちになって、あらためて荷物を持ち直したりするのではないでしょうか。

私は、五島から帰ってくるときにそのことを意識しました。実は五島からの帰り、高速船を当てにしていたのですが海上がしけていたために欠航となり、仕方なくフェリーに変更して帰ってきました。高速船であればとっくに長崎に到着している時間、まだフェリーは港に入港していませんで、長く待ったあげくにようやくフェリーが姿を現しました。その時私は、「あー、これでようやく帰れるなあ。よーし」とはっきり意識して荷物を抱えたのです。

普通に考えれば、フェリーはいつもどおりに運行していることは分かっているわけですから、何も「よーし」なんて考える必要はないはずです。けれども、フェリーが現れた、姿を見せたときに無意識のうちに「よーし」と思ったのです。そのことに意識的に気が付いたのです。

皆さんもきっとそうでしょう。コバルトクイーン号が姿を現したときに、たとえ荷物を持っていなくても、心の中で「よーし」と思って握りこぶしを握っているのではないでしょうか。船が来るかどうか分からないというわけでもないのに、船の姿が見えると無意識に心の手綱を締める。そういう経験をしているはずです。

実はこの経験が、「神のみわざに栄光を帰すことのはじまり」なのです。東方から来た占星術の学者たちが宝の箱を開けて黄金・乳香・没薬を贈り物として捧げましたが、彼らもまた荷物を持ってやってきた人々であり、ようやく幼子を見つけたその時に、心の中で「よーし、やっとここまでこぎ着けた」と、その手に力が入ったのではないかと思います。いよいよその時が近づいて、学者たちも心の中で「よーし」と思ったのです。

私が、交通船がいよいよ近づいたときに心の中で「よーし」と思うならば、その体験をそのまま日曜日のミサに当てはめてください。日曜日に目覚めた。ミサの始まる時間がいよいよ近づいた。「よーし行こう」これが私たちの神に栄光を帰す最初の一歩です。船が近づいて「よーし乗るぞ」と思った人が間違いなく船に乗るように、私たちが日曜日のミサの時間を前にしたとき「よーし」と思ったなら、それをそのまま行動に移して欲しいのです。そこから、神に栄光を帰す私たちの活動が始まるのです。

中には、事情があって教会まで来ることのできない人もいるでしょう。けれどもそんな方でも、ミサの時間を意識して「よーし」と思ったその場所で何かができるはずです。その場にいて心を合わせてお祈りするとか、お友達にその日の聖書と典礼をもらってきてその日の聖書を読む、または読んでもらうとか、あなたが「よーし」と思ったことを教会の中ではなくても果たすことができるはずです。それが、教会に来ることのできないその人にとっての「神に栄光を帰す」やり方になります。

東方からやってきた占星術の学者たち。星を見て、「よーし」と思いました。幼子を目の前にして、その気持ちはさらに強まりました。私たちも神さまがより身近に感じられるこのミサの時間に、「よーし」という気持ちを高めることにいたしましょう。そして、心の中で力を込めたその手を、賛美の祈り・礼拝の祈りのために使いましょう。神は私たちがご自分に栄光を帰すことを、今か今かと待っておられます。
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‥次の説教は‥‥
年間第2主日
(ヨハネ1:35-42)
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