主日の福音06/01/01
神の母聖マリア(ルカ2:16-21)
サブタイトル

皆さん新年明けましておめでとうございます。年賀状を中田神父のために準備してくださった方がいらっしゃるかも知れませんが、この場を借りてご挨拶に代えさせていただき、あらためて年賀状はお出しいたしませんので、ご理解願いたいと思います。

さて、教会は1月1日を神の母聖マリアの大祝日として祝っています。この大祝日には毎年同じ箇所が福音朗読として使われます。それは、羊飼いたちが出かけていってマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てる場面です。

このあと羊飼いたちは幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせ、また神をあがめ、賛美しながら帰っていきます。マリアは、「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(19節)とあります。私たちも、マリアの模範を通して、2006年の方向付けになる照らしをいただきたいと思います。

昨年2005年を振り返ると、成し遂げたこととやり残したことが思い浮かびます。司祭館の落成は決して忘れない出来事ですが、一度限りのことではなくて、これからずっと信徒の皆さんに恵みをもたらすことをあえて一つ取り上げたいと思います。それは、「伊勢エビ大漁祈願祭」です。馬込教会の信徒の暮らしに、神さまはそばにいて見守ってくださるということを、見える形で示すことができたと思っています。

ところで、やり残したことですが、昨年は故ヨハネパウロ2世によって「聖体の年」と定められていましたが、この聖体の年に、もう少し見える形で聖体への崇敬を表すべきだったと反省しています。そしてこの聖体の年に、まさに私たちにもできた聖体の行事が、佐世保地区で行われました。それは、ご聖体を漁船に迎えての「海上聖体行列」です。

この「海上聖体行列」は残念でした。何が残念だったか。それは、漁師の皆さんの協力を得てできた「大漁祈願祭」と、「海上聖体行列」は、そんなに縁遠いものではなかった、もう少し知恵を絞ればきっと実現できたということです。どうして同じ漁船にかかわることなのに、思い至らなかったかなあと思うと、今年こそは見ておれよと、そういう気持ちになります。

この「できた」「できなかった」のちょっとの差はどこで生まれるのでしょうか?私は、今日の福音でマリアによって示された「出来事をすべて心に納めて、思い巡らした」この態度にあるのではないかと思います。つまり、マリアの態度に徹底的に習うとき、神は前に進むための具体的な道筋を示してくださるということです。

運良く、「大漁祈願祭」は思い付きましたが、もっとよく考えれば、自分たちの生活に欠かせない道具でご聖体をたたえる「海上聖体行列」も、きっと思い浮かんだに違いないのです。マリアに習い、心の中で深く思い巡らせば、聖体の年をさらに実りあるものにすることができたのにと思います。もちろん、その思いは今年こそはという思いに今は切り替わっています。

一つのまとめとして、次のように言い表してみたいと思います。今年、2006年の進み方は、「2005年を乗り越える」と言うことです。やってみたらできるということが、まだ残されているのです。じっくり暖めて、この程度のものだという思い込みを乗り越える一年にいたしましょう。

マリアは、じっくり思い巡らすとき、出来事の深い意味に気付かせてくれると教えてくれています。つまり、「心に納めて、思い巡らす」人は、ありきたりの意味を突き抜けて、もっと深い意味にたどり着くのです。手をつけなくてもよいという例外を設けずに、教会活動にかかわるすべてのことを心に納めて、思い巡らしてみましょう。きっと、思い切った方法や工夫に気付いて、活動に弾みがつくと思います。

なぜ、思い巡らす必要があるのでしょうか?マリアもまた、羊飼いのように急いで出かけていき、人々に知らせようとは思わなかったのでしょうか。羊飼いは外に出て知らせました。同じ出来事を目の前にして、マリアは心の深い場所にとどまったのです。この二つの態度は、まったく違う態度だったのでしょうか。

私は、マリアがすべてを心に納めて思い巡らしたというのは、実は羊飼いが出かけていって人々に出来事を知らせるのと変わらないくらい活動的な働きだと思っています。マリアは心の中で、いろんなことを思い巡らしたのです。例えば私たちの教会活動で言えば、なぜ私たちの活動はこのような仕方で進められているのだろうか、どうしてそうなったのだろうか、他のやり方はなかったのだろうか、他のやり方が一度も試されなかったとしたら、何が原因なのだろうか。

こうしたことを深く思い巡らして一つの答えにたどり着いたとすれば、その教会活動は大きく動き出すことでしょう。効果的な活動であればさらに確信を持ってこれからも続けることができますし、ある場合はこれまでのやり方をいったん横に置いて違ったやり方に思い切って梶を切ったりと、いずれにしても動き出すと思います。動かないことはよどみにつながっていきます。マリアのようにだれかが、例えばそれは主任司祭が、出来事をすべて心に納めて思い巡らし、出来事の深い意味を探し求めるとき、大きく動き出すことが可能なのです。

マリアは活動しない人ではありません。マリアの姿に倣って教会がそのときどきに起こる出来事を心に納めて思い巡らし、その深い意味を探り続けるとき、教会は大きく動き出すことになります。動かなかったものを動かすために、今年はマリアに倣って出来事を心に納め、思い巡らすことにいたしましょう。マリアの模範を仰ぎながら、今年2006年は2005年を乗り越える、その目標に向かって力を合わせて進みましょう。
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‥次の説教は‥‥
主の公現
(マタイ2:1-12)
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