主日の福音05/12/25
主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)
その光は、すべての人を照らす

●今日は、お手元の「聖書と典礼」に「主の降誕(日中のミサ)」と書かれているこのことから話を始めたいと思います。主の降誕のミサは、「夜半のミサ」「早朝のミサ」「日中のミサ」この三つのミサが典礼上用意されています。福音朗読はそれぞれ、夜半のミサでは天使による救い主誕生の知らせ、早朝のミサでは馬小屋を訪れる羊飼い、そして今祝っている日中のミサでは人と成った言(ことば)について選ばれます。
●歴史的に見ると、クリスマスは救い主が現れたという意味では来年1月8日の「主の公現」と同じ目的で祝われているのだそうです。この点については、今日の聖書と典礼の7頁に御降誕と御公現との密接な関係について詳しく説明されています(来年1月8日の「主の公現」の祝日に述べたいと思います)。そこで救い主が現れたということを今日の朗読から読み取り、あらためて主の降誕を喜び合いたいと思います。
●今日の朗読で救い主が現れたということを表す箇所がいくつかあります。「言は、自分の民のところへ来た」「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」などははっきりしています。今日、中田神父は今挙げた箇所と違う箇所を取り上げます。それは、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」という箇所です。
●人と成ったことばは世を照らす真理の光であるというのですが、はっきりとこの箇所の意味をつかむためには、「光」についてよく理解しておくとよいと思います。光と言っても、特別なものではなく、私たちがふだん目にしている光の特徴をつかむということです。
●私たちはふだん「光」を特別に意識してはいません。私たちは光を直接見ないからです。部屋で明かりをつけたとき、私たちは明かりを見続けているわけではありません。今日はいい天気だなあと思うとき、太陽を直接見て言っているのではないのです。
●それなのに、光の大切さは疑いようがありません。光がなければ、物を見分けたり景色を眺めたりすることはできないのです。一般に「見える」と言うときは、光のおかげですべてが見えているのです。光がなければ、目がどんなに優れていても何も見えません。真っ暗闇の中で、私たちは物を見分けることはできないのです。
●こうしてみると、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」という言葉の意味が重みを持ってきます。「その光」とは、お生まれになった幼子イエスのことであり、この幼子イエスはすべての人を照らすのです。
●すべての人を照らすとはどういうことでしょうか?私たちの中には、病気その他の事情で視力を失ってしまう人がいます。生まれたときから物を見ることができないで大人になった人もいるでしょう。ついこの前も、お子さんと思われる人がお母さんの手を引いて店の中を案内して周り、手に触った物を一つひとつ説明している場面に行き当たりました。きっとその子供は視力を失った母親にとって光であり、母親の心を照らすのだと思います。
●そのように、イエスは光としておいでになりました。そしてすべての人を照らします。視力を失った人も、心を閉ざして暗闇を抱えている人も、イエスは光としてその人々を照らすのです。すべての人を照らすのですから、私たちはこのキリストに信頼を寄せて、私の光となって、毎日の暮らしを照らしてください、決してなくならない光として、私の心にとどまってくださいと願いましょう。
●すべての人を照らす方がお生まれになりました。この方に私のすべてを委ねるなら、いつも照らしを受けることができます。その喜びを、次はあなたがだれかに伝えて欲しいと思います。
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‥次の説教は‥‥
神の母聖マリア
(ルカ2:16-21)
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