主日の福音05/12/24
主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)
さあ皆で拝みに行こう

主の降誕、おめでとうございます。ものすごく寒い中で今年はこの喜びの日を迎えました。12月22日は交通船の最終便が欠航になったとは知らず、最終便の10分前に大波止ターミナルに着いてみるとそこには誰もいませんで、ただ一人床にワックスを掛けている男性が、「お客さん。残念だけど最終便は欠航になったんですよ」と教えてくれました。

伊王島までは船が出てくれるものと思っておりましたが、その日は仕方なく宿を探しました。帰ってからでも今日の説教をいくらかでも進めようと思っておりましたので、宿に着いてからも伊王島であれば使えるはずの資料や道具がないためにたいへん歯がゆい思いをしました。

いくら頭で思い巡らしても、やはり自分の机に戻らなければ、自分の部屋にたどり着かなければ実際の説教は準備できません。クリスマスの最後の最後まで、早く明日になって欲しい、早く一番船に乗りたいという「待ち望む」経験をさせてもらいました。

さて、今日この夜は、私たち皆が待ちに待った喜びの日です。待降節の始めから祈りと犠牲をもって準備を続けてきた人もいるでしょうし、もしかするとあまり準備らしい準備もせずに今日ここに集まっている人もいるかも知れません。それでも、ここに集まって主の降誕を祝っていることは紛れもない事実です。共に、今日を無事に迎えることができたことを喜び合いたいと思います。

福音朗読に移っていきましょう。今日の朗読は大きく二つに分けることができます。前半は、救い主がお生まれになったという事実を淡々と伝える部分です。登場する人物の間で会話が交わされることもありません。出来事が歴史的な事実であることを当時の時代背景を織り交ぜながら証言しているわけです。

後半部分は、救い主誕生に合わせて神の救いの計画が大きく動き出したことを語ろうとしています。主の天使が現れ、羊飼いたちに救い主を拝みに行くように促します。また天の大軍が加わって神への賛美がこだまします。いよいよ救いの計画は目に見える形で大きく動き出したのです。その知らせを受けて、人はそれぞれ態度を決めなければならないのです。

救いの計画が大きく動き出したのですから、私たちがしなければならないことは一つ、「救い主を拝みに行く」ということです。ただ単に興味や関心を持つだけではなく、出かけていって、直接飼い葉桶に寝ている乳飲み子を拝みに行くことです。今は、具体的な行動が求められているのです。

そう考えるとき、今日この時間に馬小屋の前に集まっていない人がいるとすれば、それはいったいどういうことでしょうか?少なくとも、今日の夜半のミサは晩の7時と晩の9時を組んでいるわけですが、そのいずれにも参加していない人がいるとすれば、それをどう説明するというのでしょうか?救い主を拝みに行くこと以上に大切なことが、今日この日に発生するのでしょうか?私には考えられません。

中田神父は健康上の理由で来ることのできない人のことを言っているのではありません。中田神父でも熱があって布団から起きられなかったら、ミサを捧げることはできません。そのような場合を言っているのではないのです。

行かないといけないけどなあ、と思いつつ来ない人。なぜ年に一度のこの大きな出来事をその目で確かめようとしないのですか。イエスはすべての人の救いのためにこの世にお生まれになったのです。すべての人とは誰のことでしょうか。教会から遠ざかって、今さら行きたくても行けないよなあと思っている人のためにも、救い主はお生まれになったのではないのですか?

私ははっきり言いたいと思います。自分は神さまから遠い遠い場所で生活してきた。だから今さら神さまに近づくわけにはいかない。果たしてそうでしょうか?そんなあなたのために、神さまが自らこの地上においで下さった、神さまのほうから近づいてきてくださったのではないのですか。すべての人の救いのために、諦めかけている人、投げやりになっている人をも救うために、この地上に降りてこられたのではないでしょうか。

今、すべての人のためにお生まれになった救い主を私たちは囲んでいます。「すべての人のため」という言葉が、私をのけ者にはしていないことも確かめました。どうか、すべてを迎え入れてくださる救い主の姿を、目に焼き付けて欲しいと思います。

もしも、仮にここに集っていない人を知っていたら、明日の朝にもう一度チャンスがあります。その人を連れてきてください。その人にも、あなたを救うために救い主がお生まれになったことを知らせてください。

すべての人の救いのためにおいでになった方を私たちが遠慮して知らせないとすれば、私たちは責任を問われることになるでしょう。あの人も信者なんだけどなあ、そういう人を知りながら知らせなかったとすれば、私たちはイエスがすべての人の救い主であることを認めていないことになるのです。その人に知らせないでよいというのであれば、救い主はある限られた人のための救い主ということにならないでしょうか?

布にくるまれただけの幼子は、いっさいの壁や敷居を置かずに私たちを迎えてくださることの明らかなしるしです。私を丸ごと受け入れてくださる幼子イエスに、うやうやしくひざまづき、どうか私の心にお住みになってくださいと申し出ましょう。救い主は、今日この日から、あなたの心を住まいとして使ってくださいます。
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‥次の説教は‥‥
主の降誕(日中)
(ヨハネ1:1-18)
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