主日の福音05/12/11
待降節第3主日(ヨハネ1:6-8,19-28)
キリスト者はキリストを証しします

だれにでも一番最初の時の出来事、一番目の思い出のようなものを一つや二つは持っているのではないかなと思いますが、中田神父が神父として思い出す第一番目というと、秘跡を授けた中での思い出ということになります。いくつかの秘跡、婚姻の秘跡とか病者の塗油の秘跡とか、初めての方のことは今でも思い出します。

もちろん今はそんな思い出を話す場ではないのですが、堅信式についてはちょっとだけ話してみたいと思います。普通堅信式は司教様が授けることになっていますが、場合によっては司祭も堅信を授けることがあります。例えば、定期的な堅信式が三年に一回行われる教会にあって、たまたま三年に一度の堅信式が終わって間もない頃に洗礼を受ける大人の方の場合、その後堅信式までがずいぶん間が長くなるわけです。そういう場合に、司祭は状況に応じて、堅信を授けることになります。

中田神父にも、そのような場面が回ってきまして、復活徹夜祭に洗礼を授けるのと同時に堅信の秘跡を授けたのでした。その時を振り返ると、司教様が通常授ける秘跡を引き受けたわけですから、緊張もしましたし、責任も感じました。思い出に残る式になって欲しいという思いと、これから立派に信者としての道を歩んで欲しいという願いを強く持ちました。

さて、洗礼を授けてキリスト信者になる、堅信を授けて自立した大人として信仰の道を歩み始める。これはイエス様が残してくださった秘跡の恵みにさかのぼるわけですが、中田神父が授けた第一号ではなくて、洗礼の秘跡を受けた第一号はいったい誰なのでしょうか?イエス様は弟子たちに、「父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさい」(マタイ28:19参照)と使命を与え、弟子たちは確かに洗礼を授けたわけですが、第一号はいったい誰だったのでしょうか?

この点については誰も分からないとしか言いようがないと思います。中田神父がささやかな喜びとして大切にしている「最初に秘跡を授けた相手」といったようなことは、弟子たちにはまったく興味がなかったのでしょう。圧倒的な勢いで福音を告げ知らせ、洗礼を授けて回ったのでしょうから、誰が第一号かは大した意味もなかったのかも知れません。

それでも、最初のキリスト信者という足跡は、初代教会の中では意味のあることだったようです。あの人この人が第一番目だったというような記録は聖書に残りませんでしたが、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったことについては、使徒言行録の中にはっきりと書き残されました。それはアンティオキアの教会のことで、バルナバやサウロといった弟子たちがこのアンティオキアで初めてキリスト者と呼ばれるようになったということです(11章26節)。

洗礼を受けた第一号は誰だったのか分かりませんが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのがアンティオキアで奉仕していた弟子たちであることは分かりました。それでは初めてのキリスト者は誰だったのでしょうか?アンティオキアの教会で奉仕していた弟子たちは初めてそう呼ばれるようになった方々ですが、この弟子が初めてのキリスト者であるわけではありません。初めてのキリスト者は、洗礼の秘跡が定められる前に、また初代の教会が産声を上げる前に、初めてキリストを信じて人生を歩き始めた人であるはずです。どこまでさかのぼることが出来るでしょうか。

私は、今日の福音に登場する洗礼者ヨハネが、さかのぼることの出来る最初のキリスト者ではないだろうかと思いました。毎週の日曜日の説教を準備するときの資料にしている雨宮神父様の福音朗読解説にそのことがはっきり指摘されているのですが(「洗礼者ヨハネは、ヨハネ福音書にとって、確かに『最初のキリスト者』だと言えます」ゼーヘル第619号)、洗礼者ヨハネが最初のキリスト者であるとすれば、洗礼者ヨハネの中に、私たちがキリスト者であるための大切なお手本を学ぶことが出来るのではないでしょうか。

今日の福音朗読に描かれた洗礼者ヨハネからキリスト者の姿を見いだすとすれば、それは繰り返し繰り返し使われている言葉「証しをする」この点に尽きると思います。洗礼者ヨハネはまだキリストを見ていませんでしたが、来るべきお方をすでに信じていました。信じて、その方を証ししていたのです。このことから、証しをすることがキリスト者のキリスト者たるゆえんであるということになります。

では、私たちはどうでしょうか。私たちにとっても、キリスト者と呼ばれるための理由は洗礼者ヨハネと同じ「証しをすること」だと思います。なぜなら、私たちはキリストと生活を共にしたわけでもないし、イエスさまのなさったしるしや話した言葉を直接聞いて信じたわけでもないからです。それでも私たちがキリスト者であるとはっきり言えるのは、教会に集まり耳で聞いて知ったことや先輩が私たちに伝えたことが真実であると証しをし続けるからなのです。

では実際に、証しをする機会が、暮らしの中に組み込まれているでしょうか?私たちがこの時期に証しをすることは、もうすぐおいでになる救い主を迎える準備にもなります。一人ひとり暮らしの中で、ちゃんと証しを立てているか、生活を見直してみたらよいと思います。キリストを信じているというしるしは、私の生活のどこに見えるでしょうか。

身近なところで考えてみましょう。私たちは教会の内と外でクリスマスの飾り付けを行います。教会でクリスマスの飾り付けをすることは、私たちがキリストを信じ、救い主を待っていることの証しになります。商店街のクリスマス飾り付けとは明らかに違います。商店街にはサンタクロースのまがい物はいても、幼子イエスの像は見つかりません。聖家族の飾り付けもありません。クリスマスがどんな日かも知らずにはしゃいでいる人に対して、私たちの飾り付けの準備は証しになり、証しをすることで私たちはキリスト者であると言えるのです。

中には家庭でクリスマスの飾り付けをしている方もいらっしゃるかも知れません。佐世保市のとある小教区では、教会とその周辺の信徒の家庭で盛大にクリスマスの飾り付けを行って、見る人を引きつけています。紹介している小教区は教会周辺の地域全体がカトリック信者の家庭で、全体が一つの飾り付けのように見えるのでそれはそれは見応えのある飾り付けです。ただ単に飾り付けを競い合っているのではありません。自分たちがクリスマスの意味を知った上で救い主の誕生を喜び迎えている、その証しになっているわけです。

準備は何も飾り付けだけではありません。聖歌隊の皆さんは、クリスマスのミサに向けて聖歌の練習を続けています。今日初めて皆さんにお知らせしますが、24日の夜のミサに入る直前に、小学生で劇をします。この日に向けて、教会学校の時間に今一生懸命練習しています。いろんな準備の積み重ねで、私たちはキリストを待ち望むキリスト者であることを証ししていきましょう。

洗礼者ヨハネは、証しすることでご自身が救い主キリストを信じるキリスト者であることを人々に示しました。私たちも、何もしないでクリスマスを迎えるのではなく、キリストを証しすることで自分がキリスト者であることを人々に示してクリスマスまでの日々を過ごしていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第4主日
(ルカ1:26-38)
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