主日の福音05/12/04
待降節第2主日(マルコ1:1-8)
悔い改めは希望に満ちた歩みなのです
かつて私が福岡の大神学校にいた頃の先輩に、「ダジャレ四天王」と呼ばれる先輩がおりまして、食事の席や会話の中でダジャレを連発する先輩がおりました。今も四人の名前を覚えておりますが、ここで名前を言うのは控えたいと思います。
この四名のうちおそらくいちばんの先輩が仰ったのだと思いますが、たとえば黙想会のことを、「モク吸おう会」と呼んでおりました。「モク」とはタバコのことでして、大神学校の黙想会中はすべての場所で沈黙を守らなければなりませんでしたので、ダジャレも言うことができず、この先輩にとっては黙ってタバコを吸う期間なのだと大まじめに言っておりました。
あるいは聖書のたとえで、主人が僕に財産を預けて旅に出るたとえがありますが、預けるお金の単位は「タラントン」という単位です。これを、「脳みそが足りない」「『足らんと』のたとえ」とこじつけまして、「ある人は5足らんと、ある人は2足らんと、ある人は1足らんとやったけれども足りないなりに努力して主人の期待に応えた」とそう説明なさったのでした。
ほかにもまだたくさんの言い伝えがあるのですが、今週の福音、待降節第2主日にぴったりの話を紹介したいと思います。今週待降節第2主日は、洗礼者ヨハネが現れて人々に悔い改めを説き、救い主の準備を促すという朗読が選ばれます。ちなみにこの待降節第2主日は必ず洗礼者ヨハネにまつわる朗読です。覚えておいて損はありません。
洗礼者ヨハネが登場する待降節第2主日の中心テーマは「悔い改め」ですが、ダジャレ四天王の先輩は、「くいあらためは楽しか〜」というのです。まじめな皆さんには想像もつかない解釈だと思いますが、どうして「くいあらため」は楽しいのでしょうか。
種明かしをしたいと思います。この先輩の仰る「くいあらため」とは、「もう一度食べる」「何度も食べ直す」ということをダジャレで「食い改める」と仰っているわけです。決まった時間の食事はちゃんと食べて、例えば結婚式にお呼ばれしてもう一度食事が出た。食べないわけにはいかないからと言って、喜んで食べる。次に夕ご飯を食べた後にどこかのお通夜の席に出てみると、その土地の習慣に従って参加した人に食事が振る舞われた。またそこでも食べる。そうして一日に四回も五回も食べ直しをした日を「今日は食い改めばいっぱいした〜」と、そう仰っていたのでした。
本当の悔い改めになるかどうかは疑問ですが、一つ面白いなあと思ったのは、一見して楽しいものではない務めを、思いもかけないことに結びつけて楽しくさせてくれる才能には感心しました。当のご本人は「さっき食べてきたばっかりでも初めて食べるかのようにおいしそうに食べるのは大変な犠牲がいるのだ」と大まじめに言うのかも知れませんが、悔い改めを消極的に捉えるのではなくて積極的に捉える心を学ぶ気持ちになりました。
さて、本来の「悔い改めの精神」とはどのようなものでしょうか。食べ改めほど楽しくて仕方のないものではないかも知れませんが、案外、私たちの頭の中にある「苦行や犠牲で暗い顔つきになっている様子」そんな思い込みとは似てもにつかないものが、本来の「悔い改め」なのではないかなあと思っております。
悔い改めの精神を探るために、ルカが描く洗礼者ヨハネの活動を重ね合わせて考えてみましょう。今日のマルコ福音書には詳しく描かれていませんが、ルカ福音書では悔い改めを訴えかける洗礼者ヨハネに、「わたしたちはどうすればよいのですか」と民衆が質問している様子が描かれています。それに対して洗礼者ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」「規定以上のものは取り立てるな」「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言っています。
確かに多少の節制や犠牲を伴いますが、ヨハネは民衆にご自分が実践していた荒れ野での生活を求めたわけではありませんでした。もし荒れ野での生活を同じようにしなさいと要求したのであれば、民衆にとって悔い改めとは悲しいもの、苦しいものと映ったことでしょう。ですが洗礼者ヨハネの具体的な勧めは、何か違った願いが込められていたように思います。それは、誰もが希望を持って来たるべき救い主を待ち望むことができるように、おのおの努力しなさいということです。
本来、悔い改めとは、自分の罪を認めて神にゆるしを願うことです。それが、罪を認めている証しとして私の努力を示して神にゆるしを願うのであれば、相当の犠牲や苦行をしなければならないということになるでしょう。ところが人間の悔い改めを受け入れて神がゆるしてくださるというのは神の恵みによることなのですから、悔い改めは正しくは希望に満ちた歩みなのです。
私に罪があることを認めて、神の恵みに自分を委ねること。私だけにとどまらず、周りの人にも神に自分を委ねることができるように手助けしてあげること。この道のりが、悔い改めの道であり、救い主へに心を開くという悔い改めの積極的な面を理解する道のりでもあるのです。
自分を神さまにお委ねすると言っても、それは何か形にしなければなりません。いちばん分かりやすいのは日曜日のミサに参加することでしょう。それは、悔い改めのしるし、人間が神に頼らなければ正しく生きていくことはできないとはっきり理解するきっかけになります。ミサに続けて参加する人は、救い主キリストにたえず心を開こうとしている人ですから、積極的な悔い改めを実行している人です。反対に、ミサにさっぱり来ない、申し訳程度に年に一度教会の隅に座っているという人は、神により頼んで生きようとしない人ですから、悔い改めの精神を理解しない人なのです。
私たちは、自分の弱さを認めて神にゆるしを願う、神に自分を委ねることが悔い改めだと知っているのですから、これからも続けてミサに参加しましょう。もっと大胆に言うなら、私たちはミサに参加して聖体を拝領するのですから、聖体をいただくたびに自分を改める、聖体を「食い改めて」新たにされていくのだと覚えたいと思います。
もしも、教会に来ていない人の中に、教会に来ることのできない妨げがあって、私たちが手を貸してあげれば取り除けることがあるかも知れません。このクリスマスに向けて、さらに私たちといっしょに神に自分を委ねる人、悔い改める人が増えるように、自分に近い人々にも心を配っていきましょう。悔い改めは個人個人だけの問題ではなくて、教会全体の問題でもあるのですから。
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‥次の説教は‥‥
待降節第3主日
(ヨハネ1:6-8,19-28)
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