主日の福音05/11/27
待降節第1主日(マルコ13:33-37)
準備は当日を深みのあるものにします

木曜日に司祭を対象にした半日研修会が開かれまして、リーダーシップについてというテーマで勉強会が開かれました。リーダーとして主任司祭に求められることが話の中心でした。大まかに言えば、小教区をうまくまとめるために主任司祭は司会者の役割だけでは足りない、指導者として信徒を動かし、あるいは引っ張っていくことが必要だということでした。

たいへん興味深い話としては、研修会の講師として選ばれた熊本県のとある教会の信徒の方が、「自分はミサの30分前には教会に来て座っている」と仰ったのが胸に刺さりました。講師の先生と比べたら、朝のミサに出るのもギリギリ、船に乗るのもギリギリ、中田神父は何と慌てふためいて動いて回っていることだろうと思ったのです。

もし、ミサの30分前に私が祭壇のそばで座って祈っていたらどうなるでしょうか。それはそれは大きな影響を及ぼすことでしょう。これまでの何倍も信者さんの尊敬を受けるようになるでしょうし、信頼されるようにもなるでしょう。実際はまったくできずにいることですが、講師の先生が30分前にはミサに来て座るようにしているというのは他のどの講義の内容よりも強く中田神父の心を打ちました。

十分な時間を空けずにその場に臨んでも、段取りができていればおそらくすべきことはこなすことができるかも知れません。ですが人間の働きには結果だけではなくてその働きの厚みとか深みとかそういったことも求められることがあります。礼拝に関わる主任司祭のつとめは、結果だけではなく、ミサの厳かさとか重みとか、そういった見えないことも大切な部分です。

今30分前に座ると言ったのですが、これはつまり「待つ」ということです。教会の新しい暦が始まった今日、待降節第一主日にこの「待つこと」について考えることは大いに意味があります。教会の暦の中で復活の出来事に次いで大切なキリストの誕生を、待つことで私たちはこの祝いに荘厳さと重みを持たせることになるからです。

さて福音は、「気をつけて、目を覚ましていなさい」と呼びかけています。主人は僕たちに仕事を割り当てて旅に出ます。仕事が割り振られているのですから、いつ主人が帰ってきても良いように、自分に任された仕事を果たしながら待つ必要があります。それはまるで、主人がいつもそこにいるかのように務めをまっとうすることです。主人は「いなくなった」のではなく、旅先に「いる」のです。旅先にあっても、主人がいることを意識した過ごし方を今週は求めているのではないでしょうか。

そう考えると中田神父自身の最近の仕事の内容を振り返ると、今週の福音の求めからはかけ離れていると感じます。たいへん忙しくなってきました。けれどもそれは、仕方がない面もあるとは言え、外に向かっての忙しさです。毎月仕上げなければならない「よきおとずれ」や、目の不自由な方のための15分間の講話の録音、2ヶ月に1度回ってくる全国向けの教会学校のお話の原稿、最近では商工会の呼びかけで町の活性化を話し合う委員会にも出席しています。

どれだけ並べても小教区が潤うような務めは果たしていないと感じます。中田神父がここにいる理由は、まず第一に小教区の皆さんのお世話です。そのためにどれだけの時間と気持ちを注いでいるだろうかと思うと、たいへん申し訳ないなあと思うわけです。

ところが、神さまは中田神父が小教区のために働くためにちゃんと仕事を割り当ててくださいました。もう外の仕事でどこにも時間はないと言いたい気分ですが、神さまは私に仕事を割り当てるだけではなくて、仕事を果たすために時間をやりくりする知恵も授けてくださったのでした。これから約半年にわたっての仕事が、つい最近与えられたところです。

本当に、どこに時間があるだろうかと思案していましたが、小教区のために働く時間は、ちゃんと神さまは作ってくださるものです。与えられた務めを通して、中田神父にはクリスマスの準備に充てなさいと、神さまは仰っているのだと感じました。あわせて復活祭には、小教区のために大きな喜びとなる実りが得られるのではないかなあと思っております。

さて皆さんに当てはめて考えてみましょう。待降節、新しい教会の暦が始まりました。私は神さまから何かの仕事を割り当てられて、救い主がおいでになるまでの時間を準備の時間として過ごそうと考えているでしょうか。準備の時間が、当日のクリスマスに荘厳さや重みを増してくださいますが、私にはこれから一ヶ月、イエス様をお迎えするためにどんな務めが与えられているのでしょうか。

「よきおとずれ」の12月号1面に書いてみたのですが、三つのことを実行してみてはいかがでしょうか。一つは、犠牲・献金をささげることです。信徒使徒職の活動で、クリスマス募金というものがあると思います。この募金活動に、皆さんの家庭で小さな献金箱を用意して、クリスマス募金の準備に充ててみてはいかがでしょうか。

二つめは、教会でクリスマスを迎えることができない人のためにお世話してあげることです。クリスマスの前後に、お見舞いをしてあげることもよいでしょうし、教会に行けないあの人のために、クリスマスの喜びが届きますようにと当日までしっかり祈ることでもよいと思います。今年もクリスマスのミサを昨年同様の時間で組みますので、当日あずかる私たちのことだけでなく、あずかることのできない人に喜びが伝わるような工夫を考えてください。

三つめは、救い主の誕生を知らない人を教会のミサに誘ってあげることです。その日に誘ってもはいそれではと付いてきてくれないかも知れません。前もって時間を都合つけてもらったり、その日は家族のおつきあいの時間を家庭でいっしょに過ごしてもらってそれからミサに誘い合わせて行くとか、それぞれ何かしらの準備をしながら、これから当日までの時間を過ごしてもらいたいなと思います。

準備は、当日の喜びの日を深みのあるもの、重みのあるものにします。その場しのぎのクリスマスとならないように、何か自分にできることを見つけて、今年のクリスマスが荘厳で重みのあるものとなるようにしていきましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第2主日
(マルコ1:1-8)
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