主日の福音05/11/20
王であるキリストの祭日(マタイ25:31-46)
あなたこそ私の王です

今日は「王であるキリスト」の祭日です。今日に限っては、A年の最後の週の説教を準備しているという気持ちと、「キリストが王である」ということをどのように理解し、皆さんに伝えるかということの両方が頭にありました。この世の王であれば、身なりによって王であるかどうかを見分けることもできるでしょう。または、王宮に住んでいるから王であると知る方法もあるでしょう。

ところが、私たちの王であるキリストは、この世の王が願い求めるような身なりや宮殿を持ちません。ですから、もっと違うものをキリストの姿に見いだす必要があります。身なりや住まいで決まるというのであれば、キリストはとても王とは言えないのです。それでも、私たちはキリストを王であると認めています。キリストが王であるしるしは、いったい何なのでしょうか?

私は、今日の朗読の中からそのしるしを見つけたいと思います。王であるキリストは右側にいる人たちに次のように言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。この呼びかけに、キリストが王であるしるしを見つけました。

どういうことでしょうか?「わたしが飢えていたときに食べさせ」とありますが、王が飢えていたとは、どういうときなのでしょうか?「のどが渇いていたときに飲ませ」とあるのですが、王がのどが渇いて困ったということが、いつやってくるのでしょうか?そして、飢えていたり、のどが渇いていたりする王は、私たちが頭の中で考える王とはずいぶん違っていますが、私たちはこの王であるキリストの姿に賛成できるのでしょうか。

そこで、今年、王であるキリストの祭日に取り上げた箇所を理解するために、一つの点を示してみたいと思います。たとえば何かの会社を思い描いて欲しいのですが、その会社の社長に当たる人が、従業員のことを何も知らないとしたらどうなるでしょうか。そのような会社であれば、きっと従業員のうちのある者は会社に迷惑を掛け、その中には多大な迷惑を掛けて社長の首を危うくする人も出てくるかも知れません。自分の会社で働いている人、会社と契約している社員が、どのような人物であるか、ある程度把握していなければ、会社は社員によって滅んでしまうでしょう。

同じように、国王が国民のことをまったく知らないとしたら、どうなるでしょうか。国民がどのような生活をしているのか、自分の国は安全が保たれているのか、いろんなことを把握していなければ、何も知らない王、誰からも尊敬されない王となってしまうでしょう。王が何も知らないうちに国民が飢え、乾き、連れ去られたり、裸で着る物がなかったりすれば、その国が滅んでしまうのはもはや時間の問題ということになるでしょう。

この、王が国民を十分に把握しているということが、キリストが王であるということを理解する鍵になると思います。会社の社長が社員一人ひとりの状態を把握しているように、また一国の国王が国民の状態を把握しているように、それ以上にキリストは私たち一人ひとりのことを知り、私たちのすべてに目を注いでおられるのです。

キリストが私たち一人ひとりをご存じであると言いましたが、それはどの程度なのでしょうか。私は、「どんな小さなことも、誰にも知られていないことでも」ご存じだと言い切りたいと思います。イエスがどんなに小さなことでもご存じであることは、たとえ話の次の箇所で分かります。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。最も小さい者の一人が受けた親切を、王は決して見落としません。それどころか、最も小さい者の一人にお世話したことを取り上げて、王は右側にいる人たちに報いをお与えになるのです。

どんなに小さな親切でも、誰にも気付かれないような支援にでも、王は目を留め、それを報いてくださいます。このような方が私たちの王であるとは、何と幸せなことでしょうか。王が立派な身なりをしていることよりも、息をのむような宮殿に住んでいることよりも、私たちのどんな小さなことにも心を配ってくださることのほうが、よほどありがたいことです。更に、誰にも言えないような大きな悩みや、誰にも知られずに泣いていることも、誰からも気付いてもらえないと思っていても、王であるキリストは、必ず心を痛めておられるのです。

この、国民のどんな問題にも目を留めておられる王に信頼を置くとき、私たちは勇気を持って、信仰の道を歩むことができるようになります。私が、誰か食べ物に困っている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませ、宿を貸し、着る物を与え、人を見舞い、一人きりでいるのを訪ねるならば、キリストは一つひとつのお世話を覚えてくださり、最後には報いてくださるのです。私が誰にも知られないところで小さな親切を施したとしても、全世界の王、歴史を超えて導かれる王であるキリストは、私を覚えてくださるのです。私たちの王であるキリストは、私のすべてを知っておられる王なのです。

反対に、私たちがしなかったことについても、王であるキリストはすべてを見通しておられます。誰も見ていないから、誰にも迷惑はかからないから、不正を行った、何かを怠った。これは、人間に対しては、「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」と言い逃れができるかも知れませんが、どんな小さなことでも見落とすことのない方は、「確かに、誰も見ていなかったかも知れない。誰にも迷惑を掛けなかったかも知れない。だが、この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と仰るのです。王であるキリストは、すべての国民の心の内までも見通しておられるのです。

私たちが本当に必要な王は、どんな王でしょうか?立派な身なりをしている方でしょうか。みっともない身なりの王よりは、立派な身なりのほうがよいかも知れません。ですが身なりの善し悪しは、私たちにとって根本問題ではありません。息をのむような宮殿に住む王がぜひ必要でしょうか?これも、根源に関わることではないのです。むしろ、国民の誰一人として忘れられていないこと、国民皆と喜んだり悲しんだりしてくださることがなくてはならない王の条件ではないでしょうか。王であるキリストは、この絶対必要な条件を、完全に持ち合わせた王なのです。

今日は、教会の暦「典礼暦」の最後の日曜日です。この一年たくさんの喜びと悲しみの出来事が織りなされてきたことでしょう。誰も分かってくれないと、気を落とすことがあったかも知れません。ですが、王であるキリストはすべてのことを心に留め、あなたと一緒にこの一年を歩いてきました。来週から待降節に入り、新たな一年を歩み始めます。今週は「あなたこそ私の王です」と、力強くキリストを証しする一週間といたしましょう。ただ一人の、どんな王にもまさる王に導かれる喜びを、すべての人に宣べ伝える者となれるよう、このミサの中で力を願ってまいりましょう。
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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(マルコ13:33-37)
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