主日の福音05/11/13
年間第33主日(マタイ25:14-30)
神に信頼を置き、恐れずに働きなさい

今日の福音朗読は、神に信頼を置き、恐れずに働きなさいということを強調していると読みました。五タラントン預かった僕と二タラントン預かった僕とは、主人に信頼を置いて働きました。ところが一タラントン預かった僕は、恐れて預かった金で働こうとはしなかったのです。いっさい手をつけずにそのまま返却しようとしたところ、主人から「怠け者の悪い僕だ」と指摘されます。この、主人に信頼を置く僕と恐れて動けなかった僕との間に大きな差があるのでしょうから、なぜ恐れて働こうとしなかったのか、そのへんから入っていきたいと思います。

まず考えるきっかけとして、今年ロッテがプロ野球界をにぎわせましたが、野球というスポーツを例に、恐れずに働くことと恐れて働かないことの開きがどれほどかということを考えておきましょう。例えば野球の攻撃を考えると、始めから試合に出ている選手をある場面で交代させて、代打を送るときがあります。ここで一つ仕事をしてくれよと期待をかけて出すわけですが、もしもこの代打の選手が、一度もバットを振らずにアウトになって帰ってきたら、監督はその代打に送られた選手に何と言うでしょうか?カンカンに怒ってなぜ一度もバットを振らなかったのかと叱ることでしょう。

代打に何か指示が出されていたとしたら、その指示を形にするために努力するはずです。期待されて送り出された代打の選手が、期待に応えようと努力した結果アウトになったのであれば監督は惜しかったな、もうちょっとだったとねぎらってくれるでしょうが、もしも一度もバットを振らずに帰ってくれば、お前は何を考えているんだと言われても仕方がありません。

何もしないで帰ってきたとき、なぜそこまで厳しく叱られるのか。それは、監督が信頼を寄せて、きっとこいつならおれの期待に応えてくれるに違いない、少なくとも、期待に応えようと一生懸命努力するに違いないと考えているからです。そこへ来て、まったく何もしないで帰ってくれば、監督の怒りに触れて当然です。その選手が監督の期待を無駄にしたからです。

実際はここまでひどい場面はないのかも知れませんが、もしも代打に送り出された選手が、「失敗したらどうしよう」という思いに縛られて代打の場面に出て行ったとしたら、もうその時点で監督の思いを分かっていないということになります。監督は、「お前行ってこい」と言う時に、「失敗したら、分かってるだろうなあ」とか怖がらせたりするでしょうか?むしろ「失敗を恐れずに働いてくれ」と願っているはずです。そのことを理解せずに、「失敗したらうちの監督は恐ろしいからなあ」と思って打席に向かったとすれば、もうその時点で監督の思いを分かっていないということなのです。

ここまで考えると、福音朗読の一タラントン預かった僕が、主人の思いを理解しようとしなかったために厳しく扱われたのだと理解できます。主人が何よりも期待したことは、「預けた金で働きなさい」ということだったのではないでしょうか。成功するか、失敗するかは分かりません。この僕には一タラントンしか預けていませんので、失敗するかも知れないという予測もあって、能力に応じて一タラントン預けられていたのかも知れません。そうであっても、まずは預けられたお金で働いてみて欲しかった。主人が信頼して預けたお金で、一歩踏み出して欲しかった。それが、主人のたった一つの期待だったのではないでしょうか。

ところが一タラントン預かった僕は、「失敗したらどうしよう」と、主人の期待に応えてみようという思いはこれっぽっちも浮かばなくて、始めから主人に託されたお金にいっさい手をつけなかったのです。主人の期待をいっさい受け付けず、私はあなたに掛けられた期待を理解しませんでした。これが、あなたの期待にいっさい手をつけなかった証拠です。土に埋めてそのままにしておきました。お返しします。この僕はそう言っているようなものなのです。

主人もここまであからさまに期待を裏切られるとかばいようがなかったのでしょう。僕は主人の期待を恐ろしいものだと感じていっさい手をつけなかったというのですから、もはやその僕に財産の一部でも預けたいという気持ちはなくなってしまい、いちばん多く預けた僕に託しました。おそらく五タラントン預かった僕が、主人の思いをいちばんよく理解できた僕だったに違いありません。だからこそ、恐れて手をつけなかった僕から預けた一タラントンを取り上げて、十タラントン持っている者に預けたのだと思われます。

結果を出せるかどうかを主人はそれほど気にしていません。自分が主人の信頼を受けたということをそのまま自分自身の力の源にしようと心がけたかどうかが、主人にとって「忠実な良い僕」と見るか「怠け者の悪い僕」と見るかの分かれ目になったのではないでしょうか。一タラントン預けられた僕にも、「それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった」と、何か期待に応えてみたいと思って行動して欲しかったわけです。

今の時代、100万円預けても100円しか利子が付きませんが、それでも良いから、信頼を寄せられていることを自分へのよりどころにして行動して欲しかったのです。「失敗したらどうしよう、きっと責任を取らされるに違いない」そう思って動けなくなる人がいますが、神さまは「お前にこれを任せるが、失敗は許さんぞ」と脅すような方ではないのです。むしろ、「信頼を寄せていただいたのだから、結果はどうなるか分からないけど、信頼に応えられるように努力してみよう」そんな気持ちを起こすことこそが、物語の主人として表されている神の思い、神の人間に対するささやかな願いなのです。

一つ、見逃してはならないことがあります。物語の主人は、「よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(25章21節)と言っています。期待に応えようと努力した僕に、主人はさらに喜びを共にするようにと招いている。期待に応えようとした僕には、さらにまさってすばらしい喜びを用意してくださるということです。期待に応えようと努力した人間を待っているのは、神が用意してくださっているさらなる喜び・報いなのです。

努力に応じての報いなのではありません。その上にさらに増し加えて、多くの喜びを与えてくださるというのです。これはどれほど寛大な人間がいたとしてもできるわざではありません。チャンスを与えました。それに応えようと努力しました。人間が答えてくれたなら、神は結果にかかわらずその何倍もの喜びにさらに預からせてくれるのです。

このような神に信頼を寄せて生きていこう、自分を委ねようと思うか、神が何かを期待するということは、神の立場で責任も取らされることになるから恐ろしいと考えるか、ここで人間は大きな分かれ目に立たされるのです。私に任せられたものがあるなら、それを使って神にお返ししよう。このように考えることだけを、神はひたすら願っているわけです。結果を恐れる必要などありません。もともと結果を恐れても、神が要求できる結果を人間がお返しできるはずもないからです。

恐れずに、神に信頼を置いて働いてみましょう。その一歩を、神は喜んでくださいます。あるいは今日の福音は、私は神に愛されているのだから一歩を踏み出してみましょうという呼びかけと言っても良いでしょう。「わたしが神に愛されるはずがない」という恐れをこそ、神は恐れているのかも知れません。
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‥次の説教は‥‥
王であるキリスト
(マタイ25:31-46)
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