主日の福音05/11/06
年間第32主日(マタイ25:1-13)
油は分けてあげられません

今日選ばれた福音朗読は、「十人のおとめのたとえ」と言われるものです。十人のおとめが花婿を出迎えるために選ばれ、ともし火を用意して待っていました。すでにイエス様から「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」と指摘されていますが、ともし火を携えていながら壺に油を持っていたおとめとそうでないおとめがいたのです。このおとめたちのそのあとのいきさつを私たちの信仰生活に当てはめながら、今日の福音を味わっていくことにいたしましょう。

私は、今日の朗読で十人のおとめと紹介されている登場人物は、ある一つのグループ全体を指しているのではないかと考えています。ここでは、婚宴の席で部屋に明かりを保つために雇われた女性なのですが、私たちに当てはめて考えると、カトリック信者という一つのグループ全体なのではないでしょうか。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢い」と言うのですが、これは、ともし火を持っているグループの中に、明らかに愚かな人たちと、賢い人たちが混じっていると考えられます。私たちカトリック信者の中に、愚かな人たちと賢い人たちが混じっているのです。

また、ともし火は全員持っていたのに、ともし火が消えないようにするための「油」を、愚かなおとめたちは用意していませんでした。私たちに当てはめて、カトリック信者が全員持っているものとは何でしょうか。私はそれを、「洗礼の恵み」と考えたいと思います。カトリック信者として歩み始めるその最初の恵みである洗礼の恵みは、誰もが受けていて、平等なのです。司祭も信徒も修道者も、洗礼の恵みは持っているのですが、洗礼の恵みを保つための油は、持っている人と持たない人に分かれるのです。

この「油」が何を意味するかはもう少し後で考えるとして、物語の中では愚かなおとめたちが賢いおとめたちに「油を分けてください」と頼みますが、賢いおとめたちは「分けてあげるほどはありません」と、はっきり伝えています。賢いおとめたちも意地悪だなあと思うかもしれませんが、この油は量が少なくなるからあげられないというだけではなくて、「分けることができない」ものなのではないでしょうか。

そのように考えるとき、私たちにとって身近なもので考えてみるとより具体的になるのではないでしょうか。ともし火と油ではなく、たとえばロウソクとロウのことを考えてみてください。もしもロウソクの芯しか持たない人がいて、「ロウを分けてください」と頼まれたとしても、「分けてあげることはできません」としか答えられないのではないでしょうか。ともし火と油がこのロウソクの芯とロウの関係であるとすれば、「店に行って、自分の分を買ってきなさい」と言った賢いおとめたちの答えは、理解できるのではないでしょうか。

ではこの、ともし火に対する油、ロウソクの芯に対するロウは、私たちカトリック信者にとっては何を意味するのでしょうか。洗礼の恵みとは絶対に切り離せないもの、それだけでは意味をなさないもののはずです。中田神父はそれを「信心」「信仰心」と考えてみました。洗礼の恵みはすべての人に平等ですが、この洗礼の恵みが消えてしまわないように、また洗礼の恵みを保ち続けるために必要なものは、私たちの信心、信仰心なのではないでしょうか。

次の例を考えてみてください。私はある時期、洗礼の恵みを受けました。洗礼の恵みは確かにいただいたのですが、この恵みが輝き続けるためには、洗礼の恵みを与えてくださった神に、感謝と賛美の祈りをささげる必要があると思います。それも、たまにではなくひんぱんに、神に礼拝と感謝をささげる必要があるのです。こうして初めて、私たちが受けた洗礼の恵みは、生活の中で輝きを放つことになります。

洗礼を受けたのに祈りを知らない、礼拝に参加しないでは、いつかその恵みは輝きを失い、消えてしまいそうになるでしょう。消えてはしまわないでしょうが、消えそうになっているとすれば、あとは時間の問題です。そして、洗礼の輝きが消えかかっているからと言って、信仰心や信心を分けてあげることができるかと言うと、分けてあげることはできないのではないでしょうか。

皆さんが一人ひとり考えてみれば分かることです。洗礼を受けた者同士が集まっていて、そこに祈りをする人と全くしない人がいて、「祈りを分けてください」という願いが成り立つでしょうか?「信心を分けてください」「はいどうぞ」と言うことができるでしょうか?私はそういうやりとりは成り立たない、意味がないと考えます。

「祈りを分けてください」と言う暇があったら、それこそ「店に行って、自分の分を買ってきなさい」つまり「自分で何か祈りをしなさい」としか言いようがないのではないでしょうか。「信心を分けてください」と言われても、その人が信仰心を自分から起こさない限り、信心のない人に分けてあげても意味のないことです。ロウソクのロウがロウソクの芯と一体でないと意味がないように、それだけでは何の役にも立たないのです。

ここに、愚かなおとめたちと賢いおとめたちの区別が生まれてきます。私たちに当てはめるなら、洗礼の恵みは誰もが受けているのですが、この洗礼の恵みを常に輝かせるために、輝きが消えてしまわないために、生活の中で定期的に祈り、礼拝をささげる必要があるのです。洗礼の恵みが常に輝きを保つためには、ともし火が少しずつ油を使って輝き続けるように、祈りや礼拝のわざが途切れないようにする必要があるのです。祈りや礼拝がぷっつり途切れたそのときから、あなたの中にある洗礼の恵みは輝きを失い始めるのです。

「わたしたちのともし火は消えそうです」。そこまで気づいていながら、誰かに祈りや礼拝のを分けてくださいとお願いするのでしょうか。あなたがどこかに行って、祈りと礼拝をささげる以外に方法はないのに、なぜ「分けてください」などと愚かなことを言うのでしょうか。洗礼の恵みを保ち続けるために必要なことは明らかです。あなたがどこかに行き、自分で祈り、自分で礼拝をささげるということです。

「どこかに行って」と言いましたが、はっきり言葉で説明しましょう。祈りをする場所は家庭や学校や社会の中です。一日のうちの大半を過ごす場所で、祈りが絶えてしまったら、あなたの洗礼の輝きは消えかかってしまいます。教会で祈るから大丈夫とうそぶく人がいるかも知れませんが、あなたのともし火は六日間油を切らしていても消えないほど立派なのでしょうか?そんな無茶をするよりも、少しずつ油がつぎ足されるように、日々少しずつ祈る習慣をつける方が、よほど賢い信仰生活の道ではないでしょうか。こういうちょっとした部分でも、私たちカトリック信者の中である人たちは愚かで、ある人たちは賢いといった違いが出てくるのです。

「わたしのともし火は消えそうです」。それが分かっていながら、年に五十数週ある日曜日のミサを怠り、申し訳程度に年の黙想会やクリスマスだけ顔を出す。これでどうやって、安定してともし火の炎をともし続け、社会にもそれを証ししていくことができるのでしょうか?灯油の缶も一缶の重さは大した重さではありませんが、一年分を一つの入れ物に入れて補うことは不可能に近いことです。毎週毎週欠かさず油を用意する方が、賢い生き方に違いありません。

ただし、これらすべてのことを知った上で、私たちは油を分けてあげることも覚えておきたいと思います。それは、生きている人のためではありません。すでに亡くなって、私たちの祈りを必要としている先祖のためです。今月11月はカトリック教会では死者の月です。亡くなられた方々は、私たちのように自分の責任で手を合わせたり礼拝に参加したりということができなくなっています。

生きている人であれば、ともし火を消さないために自分で祈る必要がありますが、亡くなった方々は私たちの祈りが頼りなのです。ぜひ、今月死者の月にふだんにもまして身近な人々のために祈りをささげていただきたいと思います。彼らに信心を分けるという意味ではありません。私たちの信心で得られるはずの徳を、「諸聖人の通功」「聖徒の交わり」によって届けるということです。ふだん賢い者として信仰生活を歩んでいるならば、今月はさらに亡くなった方々のために知恵を尽くしてお世話してあげましょう。

ともし火を持っているという意味では私たちは誰もが同じ一つのグループです。けれどもその中に愚かなグループと賢いグループが生じてきます。どの時期をふり返っても賢いグループにとどまっていたいと思います。仮にある時期愚かなグループにいたとしても、これからはともし火の油を絶やすことのないように、生活を整えていきましょう。そしてわたしの祈りを頼りにしている先祖のために、今月は祈り方やミサのあずかり方を工夫して過ごすことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
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(マタイ25:14-30)
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