主日の福音05/10/30
年間第31主日(マタイ23:1-12)
唯一の教師であるキリストに仕える者となる

今週の朗読にはずいぶん悩まされます。「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」(23章8節)とイエスは仰るのですが、中田神父のことを「先生」と呼ぶ人に「わたしを先生と呼ばないでください」と口止めをするのは時として難しいからです。

先週水曜日、純心大学に講義をしに行きました。大学に授業をしに行っているのですから、誰かは私のことを「先生こんにちは」とか挨拶をするかも知れません。また授業中に学生から質問を受けるとき、「先生質問があります」と尋ねることでしょう。誰もが同じことを経験するわけではありませんが、場合によっては「先生」と呼ばれることは致し方ないと思うわけです。

では、イエスが促した注意を、どのように理解したらよいのでしょうか。私たちは、「先生」と呼ばれただけで、イエスに背いたと、考えなければならないのでしょうか。疑いもなく先生と呼ばれる職業の方や、議員の方々についても、カトリック信者の場合は「先生と呼ばないでください」と、いちいち念を押さなければならないのでしょうか?

考えに考えて、私はこういう答えを出しました。ある人たちから「先生」と呼ばれることは避けられません。それでもなお「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」というイエスの忠告と折り合いをつけるとすれば、私が先生と呼ばれていると考えずに、唯一の先生であり師であるイエス・キリストの姿を人々が私の中に見ているのだと考えるようにしようということです。

このように考えた理由は二つあります。一つは、うっかり私は先生なのだと思うようになれば、「先生、どうぞお茶を飲んでください」「隣に先生のお部屋を用意しております」そんなことを言われているうちに、いつの間にか自分で自分を先生に祭り上げて、「広場で挨拶されたり『先生』と呼ばれたりするのを好む」人間になってしまう危険があるからです。こうなってしまえばその人は人々からの尊敬を欲しがる物乞いになってしまいます。

もう一つの理由は、どうしてもある人たちから先生と呼ばれることは避けられないとなれば、人々が私の中にキリストを見ているのだと考えるようにすれば、私はキリストの似姿として、いつも努力を怠らず、謙虚さを忘れず、私の中のキリストを人々に示すよい機会にすることができるからです。先生と呼ばれるたびに、まことの先生でおられるキリストを人々に示すことができれば、私が先生と呼ばれているときにも、すばらしい働きをしていると言えるのではないでしょうか。

この悩ましい問題をひとまず解決しましたので、今日の福音の中心部分に移っていきましょう。イエスはもっと大切な勧めとして、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と仰います。先生と呼ばれることもまれにあるこの世の中で、仕える者になることはたいへん難しくなってきているのではないでしょうか。また、仕える者になる場所も、限られてきているのではないでしょうか。

実は、そうでもないと考えています。「先生」と呼ばれる問題について考えたことで、今の時代にあって「仕える者になる」道がはっきり見えてきたように思います。それは、唯一の教師でおられるイエス・キリストを、私の言葉と態度で人々に示すことです。「では先生、よろしくお願いします」と言われたそのときに、私の中におられるイエス・キリストを人々に現す生き方こそが、今の時代にあって「仕える者となる」ということではないでしょうか。

では具体的に、どのような態度や振る舞い、言葉遣いが、私の中におられるキリストを指し示すことになるのでしょうか。そのためには律法学者とファリサイ派の人々に対する非難を考えてみる必要があります。彼らは言うだけで、実行しない人たちです。私たちがどんなに立派なことを並べても、実行しないならイエス様に非難されるでしょう。また、今日の朗読には含まれませんが、自分の兄弟にだけ挨拶したからといって、どんな優れたことをしたことになるだろうかとあります(マタイ5・47参照)。私の中におられるキリストを人々に証するためには、それ以上のことが求められるのです。

自分の同胞にだけ挨拶する。これはユダヤ教の中では十分通用する正しい生き方ですが、キリスト教はこの範囲を超えていきます。私たちキリスト信者にとって、私たちのうちにおられるキリストを証しするために必要な態度と言葉遣いは、「へりくだる」ということに尽きます。キリストが十字架にはりつけにされるまでへりくだりの道を歩まれたように、私たちも人に対して常に謙遜・柔和であることが、「わたしのうちにおられるキリストを指し示す」ことになるのです。

自分の兄弟に挨拶しただけでは、私のうちにおられるキリストを証しすることはできません。キリストがかつて苦しんでいる人のところまで出かけてその人の重荷を担ってくださったように、私も苦しむ人、悩む人の相談相手になる。そこまでして初めて、今の時代にあって「仕える者」の姿を人々に示すことになるのだと思います。死に至るまで仕える者となったキリストが、「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と仰ったのですから、私の身の回りで誰に仕えるべきか、もう一度考えてみる必要があるのかも知れません。

悩み苦しむ人にお仕えするとき、律法学者やファリサイ派の人々のように、掟をいくら並べ立てても意味がありません。悩み苦しむ人が必要としているのは、そばにいて苦しみを一緒に背負ってくれる人です。心にしまっている悩み事を聞いてあげて、一緒に心を痛めてくれる人が欲しいのです。私に、そのお手伝いができるなら。そのとき私は、イエスが仰った「仕える者」になれるのではないでしょうか。

司祭館にも、悩み苦しむ人がやってきます。電話で、あるいは直接訪ねてきて、人に言えない悩みを打ち明けることがあります。これまでその人の思い詰めた気持ちを少しでも和らげるように接してあげたのだろうか、私にも反省すべき事がたくさんあると思います。
とにかく、「仕える者になる」ためのポイントは、自分の兄弟にだけ挨拶するという考えを超えて、問題を抱えている人の立場にまで立つことです。そこで何をお世話してあげることができるかで「仕える者」と言えるかどうか判断されるのです。

「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」。誰に仕えるか、それは目の前にいてお世話を必要としている人の中にとどまっておられるキリストにお仕えします。「先生、ではよろしくお願いします」と言われたとき、人々に私の中のキリストを伝えることができるように振る舞います。あらゆる場面でキリストに仕える者となりましょう。そのための勇気と力を、このミサの中で願いましょう。
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