主日の福音05/10/23
年間第30主日(マタイ22:34-40)
神を愛することが掟を理解させます

今日、神の島教会の皆さんが巡礼においでになり、合同でミサをささげております。二つの教会で主の平和と挨拶を交わし合う喜びを与えてくださった神の島教会の主任神父様と信徒の皆さんに感謝したいと思います。今日、神を心から愛し、隣人を自分のように愛することを教えてくださるイエスに、教会の区域を越えて、共に耳を傾けたいと思います。

朗読から皆さんと分かち合いたいのは、イエスが仰った「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」このみ言葉です。繰り返し黙想し、味わってきた箇所ですが、また新たな発見をいたしました。

今年、改めて目を開いてもらったことは、先のイエスさまの言葉はファリサイ派の人々の問いかけ、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」に答えてのものですが、もっと大胆に、ファリサイ派の人々とのやりとりがなかったとしても、イエスのこの答えは大変重要なのではないか、ということでした。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。そのまま、イエスの呼びかけに耳を傾けたいと思ったわけです。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。心から神を愛しなさい。私はイエスのみ言葉をそう理解したいと思います。心から神を愛するなら、その神から与えられた掟が人を縛るものかどうかが分かるからです。

ファリサイ派の人々は、自分たちがモーセの書物で伝えられてきた掟と、口頭で(口伝えに)受け継がれてきた掟とを落ち度なく守っていることを誇りにしていました。人間の誇りは、時として人をさげすむ道具になります。私は落ち度なく守っている、あの人はそうではない。掟の一部しか守っていない。そのことが自分を何か偉い者のように考え、他の人を罪ある人と決めつけるきっかけにしてしまうのです。

ファリサイ派のように掟で人を縛り付けようとするなら、神が人間に与えた掟は何も喜びをもたらさないことになります。神はモーセを通して、人間に十戒を与えました。十戒は、神がイスラエルの民を守り導くことのしるしでしたから、十戒はイスラエルの民にとっては喜びだったはずです。

出エジプト記には、十戒を授けられた民がモーセに「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」(出24章7節)と答える様子が描かれています。喜んで、このように答えたはずの掟が、ファリサイ派の人々によってねじ曲げられ、苦痛と恐れを生じるものとなってしまいました。歴史の中で実をつけた十戒の掟を、ファリサイ派の人々は歴史から切り離し、振り回したのです。

本来神の十戒は、イスラエルの民が荒れ野をさまよっているときに、神に従う生き方から離れないようにと授けられたものでした。神に従って生きる道を見失い、さまよっているところに与えられたのですから、これで神に従って生きていけると、十戒を授けられたことを民は喜んだのです。十戒をこのような歴史と合わせて理解するとき、私たちにとっても十戒は人を縛るものではなく、神に従う生き方に導く喜ばしい羅針盤であるはずです。

イエスは神が民を愛しているからこそ、この十戒をお授けになったのだと言いたいのです。心から神を愛するとき、私たちが道を誤らないようにあふれる愛から十戒を授けてくださったことに思い至ります。このような見方を教えるのでなければ、掟は人を縛る足かせに変わってしまうのです。

同じことは、ペトロを基礎として教会が建てられたあとの時代にも当てはまります。私たちには「教会の六つの掟」が与えられています。神は教会を通して人を救いに導くことを歴史の中で望まれました。神は教会を通してあなたを救いたいのですよ、だから、教会の礼拝に日曜日ごとにあずかってください。少なくとも年に一度は、必ず告白してください。少なくとも年に一度、御復活祭の頃に聖体を受けてください。このような規則が生まれてきたわけです。ですから教会の六つの掟も、私たちをみな救いたいという、愛の現れなのです。

教会の六つの掟を面倒だなあと思う人は、神が教会を通して人々を救おうと望まれたことを忘れているわけです。心から神を愛します。このようにあなたが望むなら、教会を通してあなたを救おうとされた神が、道に迷わないようにと掟を示してくださっていること、私たちを愛しておられるから掟を授けておられることも、なるほどと理解できるのではないでしょうか。

こうして馬込教会、神の島教会合同で感謝のミサをささげておりますが、あーきつさよ、ミサに行かんばとかよと思って、今日の合同ミサにあずかっている人がこの中に一人でもいるでしょうか?私はいないと思います。ミサに参加するとき、教会の六つの掟を果たしているわけですが、掟に縛られてここにいると感じている人は一人もいないはずです。それは、皆さんが例外なく、心から神を愛したいと思っているからです、心から神を愛する気持ちが、掟を喜びに変えているのです。今日私たちは、教会の六つの掟に、喜びを感じたのです。

まずは神を心から愛することです。神を心から愛する気持ちがわいてくると、神に対する掟がなぜ与えられているかも理解できるようになるのです。神の望みに忠実に歩みたい。目に見える方法でも、神を愛したい。その気持ちがあれば、歴史の中で根付いた掟を私たちは感謝して受け取ることができるようになるわけです。「安息日を聖としなさい」あなたを造り、あなたを救おうと望まれる神が、安息日に礼拝をささげることで神への愛を示してくれないかと、招いているのです。このような招きであれば、決して私たちを縛るものではないはずです。

もはや、掟は人間を縛るものではなくなりました。神を愛し、人間を自分のように愛するために、あふれる神の愛から生まれた道しるべとして掟は与えられたのです。どこかで掟を面倒なものと感じているなら、そのとき私たちは掟が神を愛し、人々を愛する一つの応答の仕方であることを忘れているのです。

ついでの話ですが、旧約の時代に書物と口頭の伝承で受け継がれた掟を数えると、なんと613もの掟があるそうです。ある先輩の神父様はこの掟に語呂合わせをしました。6・1・3で「無意味」と言い放ったのです。掟の数もたいへんな数ですが、神を愛そうという思いはいつしか薄れ、あれをしては罪になる、これをすれば宗教上汚れると、掟が増えるにしたがって神を愛することからかけ離れていったのでした。

神を愛する気持ちから、神に従う道しるべが掟となりました。同じように、隣人を愛するために、道しるべとなる掟が生まれてきます。隣には、父母がいます。隣には、危険にさらされている命があります。隣の人は何かを盗まれたら、きっと困ってしまうでしょう。父母を愛したい、か弱い命を守りたい。ある人の持ち物を守ってあげたい。その道しるべとして、隣人を愛する掟があるわけです。そのことがはっきりすれば、掟は人を縛るものとはならないはずです。

「わたしが嘘つかれたら悔しいよな、悲しいよな。だから、人に嘘をついちゃいけないんだよな」このような気持ちになれる人は、隣人を自分のように愛している人です。隣の人を愛そうという気持ちが、隣人に向けての掟を理解させるのです。掟だけ切り離して学んでも、神の愛に応えて神を愛そうとか、隣の人を自分の身になって思ってあげようとか、そうした気持ちが合わさってなければ、それこそ無意味な掟になってしまいます。

心から神を愛し、自分の身になって隣人を愛することが、すべての掟に意味を与えます。まずは、掟が愛深い生き方の道しるべであることを理解し、周りの人にも、自分の身になって人を思いやる中からキリスト教の掟が生まれているのですよと告げ知らせることができるように、心を合わせて祈りましょう。
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