主日の福音05/10/09
年間第28主日(マタイ22:1-14)
打ち砕かれた心が、私たちの礼服

最近頻繁にダンプカーが通るようになって、ふっと昔を思い出すことがあります。昔というのは昭和50年頃のことですが、ふるさとの五島では土建業がにぎやかな時代でした。そこに、私の母方の祖母が仕事に出ていました。親方に雇ってもらって、毎日その日その日の日当をもらって帰るのでした。

私は何度か、祖母に小遣いをねだりに行ったことがあります。祖母に直接「お小遣いください」と言えず、紙に欲しいものを並べて書いて、それを祖母に見せていました。今でも覚えていますが、祖母はカタカナしか読めなかったので、ツリザオガホシイとか、クツガホシイとか、カタカナで書いて差し出したのです。

祖母は車やバスに全く乗れませんでした。何度か乗ろうとしたそうですが、それでも次の停留所に行くまでには乗り物酔いをして、バスの運転手に「降ります。降ろしてください」と言っていたのだそうです。当時はバスに乗ったことがないという人はそんなに珍しくはありませんでした。

それでも、日曜日のミサのためには片道およそ2里の道のりを平気で歩いてきていました。それも、ふるさとの教会では一番ミサと二番ミサがいつもありましたが、一番ミサにまずあずかったあとに私の家に寄って、私たち孫を連れて二番ミサにあずかっていました。そのことに気が付いたのは、ずっと後になってからでした。

たまの祝い日には気合いの入れ方が半端ではなく、前の日から私たちの家に泊まりに来て、その日の晩には私たち孫を並べてロザリオの祈りを唱え、翌日曜日の一番ミサに行って、それから私たちを連れて二番ミサに行っていたのでした。私たちは祝い日は気の利いた服を着せてもらって嬉しかったのですが、前の晩からばあちゃんが来てロザリオを付き合わされて、晩の祈りも長々唱えるのに参っておりました。

そういう思い出の中で、祖母がいったい日曜日にどんな服を着てミサにあずかっていたのか、全く思い出せません。特別な祝い日には母親は着物を着てミサに出ていたような気がするのですが、祖母がどんな服を着ていたのか、全然思い出せないのです。もしかしたら特別に用意した服を着ていたのかも知れませんが、意外と着る物も節約して、生活をしていたのかも知れません。

そんな思い出を、今日の朗読に重ねてみるとき、次の場面がどうも引っかかってしまうのです。「王が客を見ようとして入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか』と言った。」私の記憶の中では、おそらく祖母は礼服どころか、思い出せる程度の服さえも着ていなかったのではないか。そう思うときにたとえ話の王の言葉が、今になって気になってしまいます。

ここで言う「礼服」とは、いったい何を意味していたのでしょうか。その内容によっては、私たちも王であるキリストの前に出る日曜日に、考えるべき事があるのではないかと思います。そのへんを、今週少し考えてみることにいたしましょう。もしかすると、これまで私たちはたとえ話の中で期待されている礼服を身につけずに、王であるキリストの前に出ていたのかも知れません。

二つ、考えてみたいと思います。一つは、この礼服は私たちの努力や成果のようなもので、神に捧げるのにふさわしい香り高い供え物と考えることができます。過ぎた一週間で、こんな親切をした、これだけ祈りを捧げた。こんな気にくわない人を許してあげたし、こんなきっかけを見逃さずに人を回心に導いた。これは、日曜日に祭壇に近づくときに、自信をもって身にまとうことのできる実りかも知れません。

たしかに、このような考えを当てはめることもできるでしょう。礼服は宴会の席にふさわしい身なりを整えるためのものですから、徳を積み、隣人愛を実行したことは、自分自身を立派に飾ることになるでしょう。ですが、もしもそのことだけを考えるならば、自分は罪深いものだと感じている人は、日曜日のこの喜びの席に加わることはできないということになります。自分の罪深さを嘆いたり、憐れみを願い求めようと思う人には、宴会の声もかからないということになります。

果たしてそうでしょうか。この日曜日の礼拝に、憐れみを願い求める人は、赦しを願い求める人は、参加してはならないのでしょうか。そうではありません。実際には神の憐れみを求め、赦しを願う人は、神が用意してくださった席に連なることができるのです。となると何か、これまで考えてきたこととは違うものが、たとえ話の礼服として考えられているのではないでしょうか。

そこでもう少し考えてみたのですが、こうではないかなあと思うものが見つかりました。それは信頼の心、自分はこの場にふさわしくないと認める人の「打ち砕かれた心」が、王であるキリストの前に出るための「礼服」なのではないでしょうか。

そう考えるときに、亡くなった祖母があれほど日曜日のミサに気合いを入れていた理由が、何となく理解できるわけです。毎日毎日きつい場所に出て働いていました。もしかしたら、その日雇ってもらえないことがあったかも知れません。孫には決して分からない苦労があったに違いありません。それでも、日曜日のミサを欠かさなかった祖母の心の中には、ミサを拝むことが唯一の楽しみ、心の支えだったのではないかと思います。

もしかしたら、たいした身なりをしてなかったかも知れません。晩年は、この服を着て頂戴と、まるで叱られるかのようにして着替えていっていたことからすると、身なりは褒められたものではなかったのかも知れません。ただ、祖母の心の中には、ミサに行くことに何にも変えられない幸せを感じていたことは確かです。そうであるとしたら、礼服とは自分で積み上げた努力や結果のことではなく、私にはあなたに頼るしかないという謙虚な気持ち、砕かれた心が、誠の礼服だったのではないかと思うのです。

別のたとえ話の中に次のようなものがあります。ファリサイ派の人と徴税人、二人の人が神殿に礼拝にやってきて、ファリサイ派の人は自分が常々行っている立派な行いを並べ、徴税人は胸を打ち、頭を上げることもせずに神よ私を憐れんでくださいと唱えて帰った話があります。どう見ても、立派な行いを持ち寄ったファリサイ派の人を神は祝福しそうなものですが、義とされたのは徴税人だったという話があります。礼服を身につけているかどうかということに置き換えると、打ち砕かれた心で神殿に来た徴税人のほうが、神が期待している礼服を身につけていたということになります。

そこで私たちも考えてみることにしましょう。私たちはこうしてミサに参加して、必要なことは果たしているときっと思っていることでしょう。礼服を身につけ、いちおう合格点という格好をして、この礼拝に参加していると思っています。ですが、もしかしたら、あと少し足りないということもあるのではないでしょうか。問題ないと思っているその心のどこかに隙があって、あなたの礼服には問題がありますと、本当は指摘を受けているのではないでしょうか。

たとえばこういうことです。私は幸いに、日曜日のミサに来ています。もしかしたら、ミサに来ない誰かを思い出して、ああ、あの人よりはましだとどこかで考えてしまっているのではないでしょうか。あるいは、事情があって教会に来ていない人を知っているけれども、思い出すだけで手を差し伸べないまま今日に至っている人はいないでしょうか。

もし、そのようなことがあれば、私の礼服はもう通用しなくなっているかも知れません。何か生活上の揉め事があって教会を離れている人を知っていたら、まずはその人の心の痛みを、日曜日に一緒に持ってきてはいかがでしょうか。実はこんな事情で教会から遠ざかっている人がいます。本当はこの人も教会に行きたいに違いありません。どうか、この人の心に働きかけてください。そんな願いをあなたが持ち込んでくださったら、立派な行いで身を飾るよりももっとすぐれた礼服として、王であるキリストの目にとまるのではないでしょうか。

もし、もっと大胆な働きかけができるなら、いろんなことを抱えて教会に来づらいかも知れないけれど、私が一緒に座るから、隣にずっといてあげるから、行ってみないかと声をかけてみてはいかがでしょうか。良い行いだけが礼服なのだと言えば、どうしても来ることのできない人もいるかも知れません。そうではなく、打ち砕かれた心こそが何よりの礼服なのだと考えるとき、礼拝の場に立つ心構えはもう一歩深まるのではないでしょうか。

打ち砕かれた心を王であるキリストの前に立つ礼服とするとき、すべての人の僕になられたキリストが食事を用意してくださり、数々のもてなしにあずからせてくださることでしょう。さらに困っている友のためにも礼服を用意して、一緒に礼拝に連なることを目指し、新たな一週間に入ることにいたしましょう。
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年間第29主日
(マタイ22:1-14)
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