主日の福音05/10/02
年間第27主日(マタイ21:33-43)
収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取りに行くその意味

今日の朗読は、神さまの遠大な救いの計画がたとえ話のいちばんそこに流れていて、この神の計画をふまえて読むと、これまでとはひと味もふた味も違った読み方ができると思います。その点を押さえて、たとえ話を通して語りかける神の声に耳を傾けましょう。そして、神が今の時代の私たちに何を求めておられるかにも、心を向けることにしましょう。

そこで、たとえ話をもう一度たどっていく前に、神が人間に用意された救いの計画について、手短におさらいしておきましょう。神はあふれる愛からこの世界を作り、人間を造り、救いの手をさしのべてくださいました。造られた人間は、実はそのはじめから神さまに背いて罪を犯し、神を悲しませたのでした。それでも神は慈しみを忘れず、一つの民族を起こしてそこから人間を救うための計画を進めます。

何度も何度も道にそれそうになる選ばれた民を呼び戻すために旧約聖書の時代に預言者を送り、神の戒めを思い起こさせました。ところが民は神の戒めを聞こうとせず、預言者はしばしば迫害され、命を落としていきます。最後に神は、ご自分の独り子を送って、罪から離れない人間を救おうとしました。その独り子さえも民は信じようとせず、十字架にかけてしまいます。が多くの人間が神の計画に協力しなかったにもかかわらず、最後に送った独り子は、復活して救いの計画を完成し、私たちが滅びることのないようにしてくださいました。

ここまで、神さまの救いの計画を大まかに眺めてきたのですが、実はこの壮大な計画が今日のたとえ話の中に見事に織り込まれているのです。「ある家の主人がぶどう園をつくり、垣を巡らし、云々」というところは、神が天地を創造されたことに当てはまります。ぶどう園を農夫に貸し与えるというのは、神がこの世界を人間にお任せになったということです。

また、「収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った」この部分は、神が選んだイスラエルの民に何度も何度も預言者を送ったことを意味しています。けれども民はこの預言者たちを「袋だたきにし、殺し、石で打ち殺した」のです。イスラエルの民は預言者の言葉を嫌って、迫害し、命を奪います。

そして最後に、「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と送った独り子イエス・キリストは、ごく一部の人びとには信じてもらえましたが、権力者や宗教指導者、その人たちに付く大部分の民衆からは受け入れられなかったのです。けれどもたとえ話の説明にあるように、「家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。/これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える」とあるように、人に捨てられましたが、すべての人の罪を背負い、十字架にかかって復活し、栄光を受けて救いを完成なさいました。このように、たとえ話に隠れてはいますが、神の救いの壮大な計画が、今日の朗読の底辺にあるのです。

私はまた、今日のたとえ話が神の壮大な救いの計画を表しているというだけではなく、これだけの内容を一つのたとえ話の中にきちんと収めるその巧みさに驚きます。ここからが今週中田神父の話したい部分なのですが、どこからどう見ても、やはりイエス・キリストは神の独り子、神から遣わされた者だと納得しました。これほど遠大な神の計画を知り、そして一つのたとえ話の中に見事に織り込むことができるのは、神ご自身以外に考えられないと思うのです。

考えてみてください。イエス・キリストは三十歳くらいで宣教活動に入られたとされていますが、三十歳で旧約聖書のすべてを完全に理解し、聖書の中に書かれていることのすべてに完全な答えを持っていました。私たちの知りうる限り、三十歳で日本の歴史をすべて理解し、日本史の中で起こった出来事すべてに正しい答えを出すことのできる人は、どこにもいないと思います。

三十歳で成功する人はいるでしょう。多くの人の疑問に答える人もいるかも知れません。ですが、これまでの歴史の意味をすべて答えることができる人はいないのです。いつどこで何が起こり、それはこんな意味があったのだと、ちっぽけな人間がどうしていうことができるでしょうか。ところがイエス・キリストは、世界が造られたときから始まって神が人間をどれほど愛し、人間の罪にもかかわらずいつも救いの手をさしのべてご計画を進めてこられたことを一つのたとえ話の中に見事に織り込んでお話になったのです。こんなすばらしい芸当は、たかだか三十年生きた一人の人間にできるわざではありません。歴史のはじめからその場におられた神でなければ、この壮大な歴史を見通すことはできないと思うのです。

その神の子キリストが、たとえ話の中でいちばん話したかったことは何でしょうか。私は次の箇所ではないかと思っています。それは、「さて収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った」という箇所です。一度、目を通しているのでお気づきにならなかったかも知れませんが、ここにはまだ解き明かしていない疑問が隠されています。

それはこういうことです。「収穫の時が近づいたとき」「収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った」とあります。よく考えると、「収穫の時が近づいた」と言っているだけで、ぶどうが十分に収穫できるようになったとは言っていないのです。収穫が間近になっただけですから、収穫を受け取るには少し早すぎるのです。

ですが、たとえ話の中では、「収穫の時が近づいたとき」「収穫を受け取りに僕たちを送った」とあります。まだ収穫のその時ではないのに、どうして受け取ることができるのでしょうか。この点がまだ解決されていませんでした。そして、この点を解決するためにこそ、このたとえ話は語られていると思うのです。

人間的に考えれば、収穫が近づいた、というだけで収穫を受け取りに行っても、収穫できるはずがありません。人間の力で収穫を受け取ることができないとすれば、それは神ご自身が、収穫を用意して、収穫を受け取る以外にないわけです。こうして、収穫が近づいたときに、イエスはご自分が収穫となってこの世界を訪れ、ご自身をささげものとして、父なる神は受け取るべき収穫を受け取ったのです。ここでようやく、一つの疑問が解決しました。

そこで私たち自身のことを考える必要が出てきます。私たちは、独り子がみずから収穫となり、おいでになったのを受けて、その収穫をダメにしてしまうのか、収穫としておいでくださったイエス・キリストを感謝して受け入れるかのどちらかを選ぶ必要があります。「季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」収穫の実りすらご自身で用意されておいでになるキリストを拒むなら、私たちがぶどう園の主人である父なる神に拒まれるのは仕方のないことではないでしょうか。

これだけの荘厳な計画を知り尽くし、神の計画の中で受け取るはずの収穫についても答えを知っておられる唯一のお方、主イエス・キリスト。私たちははっきりと、主を受け入れ、ご自身収穫となってくださった主を感謝して父なる神にお返しする必要があります。その確実な方法は、こうして今集まっているミサ聖祭に参加することです。

ミサ聖祭こそは、主ご自身がささげられる尊い祭儀です。今日のミサ聖祭を通して、壮大な救いの計画を考え、実行し、私たちを救ってくださる主に自分自身を委ねますと、あらためて言い表しましょう。神のご計画をダメにする者とならないように、むしろ、どんな小さな事でも良いから、救いの計画を推し進める手助けのできる者となれるように、このミサの中で願うことにいたしましょう。
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‥次の説教は‥‥
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